2017年4月 3日 (月)

それぞれの正義

新年度が始まった。
いよいよ定年となる年度となった。

年度(正確には「会計年度」というらしい)は国によって違うが、日本はお正月を大きな節目として迎える習慣があるので、1年に2回も「新しい1年」を迎える感じだ。
もっとも、私は商売をしている家で育ち、いくつもの会社を転職してきたが、それなりの規模の企業でないと「新年度」を大きな節目として感じることはなかった。
20170403seigi
昨年末の「変化の際(キワ)」 にも書いたが、「トランプ大統領」「イギリスのEU離脱」など、いよいよ大きなうねりが現実化しつつある。
それに関連して「ポピュリズム」という言葉がネットや報道で流れる。

ポピュリズム=一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想、または政治姿勢のことである(ウィキペディアより)

今までの常識的な目線から見れば「そんなことは受け入れられない」と思うが、現実には大統領になるし、実際に日本だって「ヘイトスピーチ」「教育勅語を唱和する幼稚園」などの問題があって、排他的な空気は身近にある。

そんなニュースを目にしたり聞いたりするたびに「第一次・第二次世界大戦前の世界は、こんな感じだったのかもしれない」と感じるようになった。
世界中の国や人々は「まずは自分の国を」と考え、それ以外を「仮想敵」とみなし軍備補強を行う。
当時日本は、軍備補強を大国に制限され、それがきっかけで輸入規制を掛けられ、戦争に入って行った。大胆に言えば、世界大戦はそんな感じで始まったと思っている。

その時日本には日本の「正義」があり、他国には他国の「正義」があり、みんな「自分たちが正しい」と思っていたのだと思う。
この「自分の思う正義」と言うものが厄介なものだと最近感じる。
国には国の、自治体には自治体の、企業には企業の、労働者には労働者の、そして個人には個人の「正義」がある。

沖縄の基地問題で、知事と国がぶつかるのも「正義のぶつかりあい」だし、春闘も「企業の正義と労働者の正義」のぶつかり合いだ。
そして夫婦げんかも「それぞれの正義」のぶつかり合いだ。
「自分の思っていること、考えることが正義」と思えば思うほど、ぶつかる衝撃は大きくなり、「譲れない衝突」になっていく。

これを避けるためには「他人の正義」を分かろうとしたり、認めようとしたりするしかないのだが、どうやら最近の世界中の動きを見ていると、まだまだ人類はそのレベルに上がる準備が出来ていなかったことが分かる気がする。
そんなことを感じながら定年の年度が始まる。
私の正義は「再雇用はしてほしいけれど、少し仕事はセーブしたい」だが、果たして周りの正義はそれを認めてくれるだろうか?

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2016年5月28日 (土)

【備忘録】米大統領の広島訪問

今日は、土曜の出勤日。
さらに言えば、有給取得促進日(会社から、出来るなら有給取得してね?という有給取得施策の1つ)なので、普通なら休む。
実際に、会社に出社している人数は、とても少ない。20160528

しかし、先月は体調不良で、今月は「姪の結婚式」「若冲展」などで、立て続けに有休を取った。
欧米人から見れば信じられないだろうが、そんな状況のためにちょっと遠慮して今日は出勤している。

今週「伊勢・志摩サミット」が行われたが、それは私の住む地域に近い。
「オバマ大統領が中部国際空港に降り立った」というニュースを見て、何だか変な感じを持ったし、サミットの1カ月以上前から、高速道路には「サミットのため規制がある」と情報発信されていた。

私自身に直接影響はなかったけれど、「トラック便に影響が出る」とか「営業は時間の余裕を持って」などと社内でも注意喚起が行われていた。
さらに、サミット前日にはわが家のマンション上空を夜9時くらいに飛んでいくヘリコプターの音が聞こえ、やはりいつもとは違う感じではあった。

サミットそのものは、あっと言う間に終わり、特にテロのようなことも発生せず「やはり日本は安全な国」と思った(それなりに厳重な警備だったが・・・)
そのサミットよりも関心を呼んだのが、オバマ大統領の「広島訪問」

滞在時間わずか1時間。
ショートスピーチの予定が17分間におよぶ演説だったこと。
被爆者(そういえば、演説の中で「HIBAKUSYA」と語っていたのは、驚いた)と少しだけ語り、握手し、抱擁したこと。


謝罪は求めない。
謝罪してほしかった。
もっと、ゆっくり資料館を見てほしかった。
長崎にも来てほしかった。


立場やその人の送ってきた人生や、そして立場によっていろいろな意見があるようだ。
でも、私は素直に「アメリカの大統領が広島にやってきて語った」ことを大きな出来事として嬉しく思った。
原爆ドームを背景に、アメリカの大統領が哀悼のメッセージを含めたスピーチを行った姿には、胸を打つものがあった。

私は常々「原爆投下は正しい判断だった」と公言するアメリカの人には「どんな意見を持っていても良いから、一度原爆資料館を見てほしいなぁ」と思っていた。
アメリカの軍人だって、中国や韓国のように日本に占領されて攻められた国の人にだって、いろんな意見や考え方があると思うし、私はそれを否定はしない。
ただ原爆資料館を見てほしいなぁ。
あの展示物や説明を見て「何か」を感じてほしいなぁと思う。

今回、オバマ大統領が広島訪問したことがきっかけで、いろんな国の多くの人たちが広島や長崎に訪れ、資料館を訪れてくれるならば、それだけでも意味のあったことだと私は思う。

私の住む地方の近くでサミットがあったこと、そしてアメリカ大統領が広島を訪れたこと。
この2つを備忘録としてブログの話題にした。

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2015年7月 6日 (月)

攻撃されたらどうなるか?という疑問

いつの頃から覚えていない。
けれど、この手のニュースを見るたびに、いつも思うようになった。
「例えば、北朝鮮がミサイルを突然打ってきたら、どうするのだろう?」

20150706_kougekisaretara毎年のように総理大臣が変わっていた時代から、ここのところ安倍晋三氏で落ち着いている。
だからなのか、分からないが「集団的自衛権」「安保法制」とか、ちょっとタカ派的な動きが活発になっている。

その関連から「憲法9条」「憲法違反」、そして「内閣支持率低下」など、なかなかの逆風が続いている(ような報道が多い)。
そしてニュースでは「戦争反対」の集会やシュプレヒコールの場面が画面に出たり、「戦争に巻き込まれるな」のプラカードを掲げている姿が映し出される。

そんなニュースや新聞を目にするたびに、冒頭に挙げた
「攻撃されたら、どうするのだろう」という思いが頭をよぎる。

このブログをずっと読んでいる人には分かってもらえていると思うが、私は決して「戦争肯定派」でもないし、「軍隊を持つべきだ」とも思わない。
それよりも、ずいぶん前に書いた「ヒロシマナガサキ」 にあるように、小学校時代には徹底して「戦争は悲惨なのだ」という教育を受けてきた。

それに今年は「戦後70年」に節目であるために、テレビや新聞でも沖縄戦の惨状や、悲惨な出来事を多く目にし、そのことを見聞きするたびに「やっぱり戦争は嫌だ」と思う。

それでも先の「攻撃されたらどうする?」という疑問は消えない。
いくらこちらが「戦争はやめましょう」とシュプレヒコールを上げていても、例の国が「ちょっとミサイル実験が失敗しました」という理由で、福井の原発近くに着弾したら、どうするのだろう?へ

もう少しリアルに言えば、「経済政策への報復」として、突然戦争を仕掛けてきたらどうするのだろう。それでも反撃せずに「平和を守れ!」と言い続けていられるのだろうか?
「平和」とか「戦争反対」とか、文字や祈りだけでは解決しないと現実的に思えば思うほど、この疑問は大きくなり続けている。

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2015年3月23日 (月)

障がい者雇用の難しさ

今回は、前回よりも、もっと繊細な話題。
「障がい者雇用問題」だ。Syougaisya

仕事の関係で「企業の障がい者雇用の責務」は、ちょっとだけ知っている。
全従業員の(確か)2%は、障がい者を雇用しないといけないことになっている。
それが出来ないと数百万円の罰金を払うことになる(のだそうだ。総務の担当者が教えてくれた)。

ウチの会社では昔は数名、耳の不自由な人が勤務していた。
でもここ数年、人数が減って、どうやら多額の罰金を支払っていたようだ。
そこで、昨年から2名総務に障がい者が雇用された。

そのうちの1名は、事故が原因で「記憶障害」を持っている人で、教えられたことを記憶して覚えられないのだそうだ。

私の業務や部署と直接関わることがないので、特に困ることはないけれど、配属された総務を見ていると、かなり疑問に思ってしまう。

それでなくても総務など間接部門は、余剰人員は許されず、経費節減状態で業務対応している。
これなんかは、ちょっと私たちの業務にも影響しているので、結構ブーイングが出る。
一例をあげれば、経理の数字が間違っていること。スタッフが少ないので、パートで凌いでいるが、単純に経費の入力を間違えたりして、毎月の経費明細を見て「これおかしくないか?」と思うことが、ちょくちょくある。

そんな状態のところに障がい者の人が配属された。
健常者とは違うので、それなりにフォローが必要となる。
そうなると、健常者のスタッフは、今まで以上に忙しくなり、却って負荷が増えている状態になっている。

こんな言い方をすると、もの凄くブーイングされるかもしれないが、「1+0.5=0.6」みたいになっている。
これが例えば車イスの人でも、社屋内すべてがバリアフリーになっていれば、良いけれど、ウチの会社のように昭和40年初期の建物だと、やっぱりフォローが必要になる。

だったら罰金払っていた方が良いじゃんと、とっても反社会的な感想を持ってしまうが、これが障がい者を受け入れた側の企業の状態であることも確かなのだ。

大企業の場合は、障がい者だけを集めて別会社にして、法規制に対応しているところがあるが、私たちのような中小企業だと、そんなわけには行かない。

健常者だけでなく、すべての人たちに「働く機会を均等に」という気持ちは分かるし、本当にその通りだと思う。けれど、その受入れに対し、企業や個人が犠牲になって対応しているのは、本末転倒な気がする。
これも前回に引き続き、繊細でとっても難しい問題なのだと思う。

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2015年3月16日 (月)

介護問題は別次元で議論しないと

今回と次回は、ちょっと繊細な問題。
無責任なことは書けないけれど、でも現実的に周りには起きていることなので、これも得意な「備忘録」として取り上げることにした。Kaigo

今回はタイトルにあるように「介護問題」
なかでも介護を受け入れる側の問題について。
「介護報酬が引き下げられる」ことがニュースで話題になる。
でも「職員給与は引き上げへ」とも言われる。

私の周りに、介護業務に携わっている人がいないので、何となく噂で聞くレベルだけれど、とにかく介護業務は激務だと聞く。
そして、給与や勤務などの待遇も悪い。
パンフレットの写真にあるように、素敵な笑顔で対応し続ける職員は、一体どれくらいいるのだろう?
実際に、離職率も非常に高いと聞く。

私のような60歳が目の前に来ている人間からすると、この「介護問題」は、結構リアルな話しだ。
なのに……。
一生懸命働いて、税金も納めてきたのに、全く老後の状態が安心になってくれない。いや、最近はますます不安になる。

介護施設に申し込んでも何年も先まで入れないと聞くし、それなりのサービスを受けるなら、それなりの金額を支払わないといけないとも聞く。

こういうことを聞きつづけると、介護問題の根本から解決しないといけないのじゃないかと思えてくる。
今から15年くらい前、ドイツの環境ツアーに参加したことがある。
その時に、ドイツの環境学習の拠点で
「環境問題を、モラルとか志で解決しようとしてはいけない」
と言われたことを思い出す。

どうしても日本人は公共性意識が高いので、「モラルや志」に頼ってしまうけれど、それは、解決策の決め手にはならないのである。
この「介護問題」も同じ。
「モラルや志」に頼らず、「ちゃんとビジネスとして成立し、とっても利益が上がる」といったように、今までとは全く違う次元で議論しないといけない気がする。

消費税のうち3%は、全部介護ビジネスに回して、経営も環境も、そして働く人たちも、みんな「だって、良いお金になるし」と思って、次々ビジネス参加するような仕組みを早く作らないといけない。
そうしないと日本中、姥捨て山みたいな場所が増える気がしてならない。

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2015年2月 9日 (月)

宗教集団の暴走

できるだけ触れないようにしてきたけれど、最悪の結果となりテレビでも大きく取り上げられているので、今回だけ話題にする。
備忘録という意味でも、「そんなことあったっけ?」とするわけには、いかない問題と思うので。Isuramu

ただ、宗教に関して書いたり話したりすると、誤解されたり、分かり合えなかったすることが多く、難しい話題だと思っている。
昔、長距離通勤していた時に、こんな場面に出くわした。

対面の席の人が聖書を読んでいることに対し、おそらく全く面識のない人だと思うが、いきなりキリスト教に対して、いろいろ議論を投げ掛けていた。
朝の通勤中なのに……である。
すぐそばにいた私は「あり得ない」と思ったが、聖書を読んでいた人も応え、混雑する通勤列車の中で、宗教論が飛び交うという異様な場面となってしまった。

だから、今回の「イスラム国」と名乗る日本人殺害のテロ事件は、「宗教」という側面を持つだけに、実に難しく、デリケートな問題になってしまっている。
……と言っている間に、日本人2名は殺されてしまったのだが(現時点では殺害されたとされている)、何となくオウム真理教の頃と似ている気がする。
余談だが、この記事を書くために「イスラム国」と検索したら、とても残忍な写真が次々出来てきた。人間のやることとは思えない・・・・・。

ちょうど今、「最後のオウム裁判」と言われて、これもニュースに流れるが、あの時も「宗教の自由」とか「言論の自由」とか言っている間に、日本の首都の混雑する通勤地下鉄で、サリン散布という、とんでもない大都市テロ事件になってしまった。

今も、オウム系の宗教団体は存続しているようだけれど、ヒットラーを見て分かるように、「人間の集団暴走の怖さ」は、悲惨さが理解できない精神状態で進んでしまうところにある。(先に述べたネットの写真なんかは、その代表例だろう)

宗教や言論の自由さは、大切なことだと思う。
けれど、それと同じくらい「人間には必ずある暴走感」を、今回の事件では、とても重要なことなのだと認識するきっかけにしておきたい。

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2013年8月15日 (木)

旭日旗のこと

恥ずかしい話だけれど、知らなかった。
Kyokuzituki「旭日旗」の意味と、それに対するアジア諸国の感情について。
何となくとても漠然と「戦争の時の旧日本軍が使用していた旗」と思っていた。
それが今、私たちが目にする「日の丸」とどう違うのか?

サッカーなどで国際試合が行われる場合、観客が「日の丸」でなく「旭日旗」を振ることに、アジア諸国の人たちは過敏に反応する。
そんな記事を見て、単純に「なんでだろう?」と思った。

たまたまコンビニで「零戦と大和」という雑誌が目につき、これについても「名前は有名だけれど、正確なことは知らないなぁ」と思い買ってきた。
その中に「旭日旗」について書かれていた。

旧日本軍がなぜ「旭日旗」を用いたのか?
これは「日の丸」だと風に棚引いていない時に、降参を意味する「白旗」と間違えるため(実際にあったことらしい)、「旭日旗」を使用していたと、その雑誌には書いてあった。
その時には「へぇ~~」と思ったが翌日ネットで調べたら、こうも載っていた。

旭日の意匠には、古来よりいくつもの種類があり、民間での祝い事などの際にめでたさを強調するために用いられてきた。旧日本軍の軍旗がよく知られているが、軍旗として用いられた旭日旗そのものが、古来一貫した意匠だったわけではない。
明治憲法下における軍旗は、国家神道の成立に伴い「天皇の分身」としての意味が与えられたため、最敬礼することが求められた。(ウィキペディアより抜粋)

そうこの「天皇の分身として意味」という部分が重要だ。
戦前の憲法とは言え、あの戦争の時期に「旭日旗」に込められた意味を、日本人としては、知っておくべきだろう。
その上で、スポーツ観戦に使用するのが相応しいかどうか、個々に判断した方が良い。

昭和30年代前半に生まれた私は、今の人に比べれば遥かに「戦争」の話を身近に聞いてきている。
それでも、こうやって知らないことが出てくる。

知らないことで、他国の人に嫌な事を感じさせないためにも、歴史のプラスもマイナスも平等に「事実として」学ぶ必要があるんじゃないかなぁと、終戦の日に思う。

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2013年7月 8日 (月)

政治家のSNSって

最近ちょっと思う。
政治家のSNSってどうなんだろう?Seizikanosns

TwitterとかFacebookとかで良く話題になるのは橋下大阪市長と安倍首相だ。
一応、このSNSというものは(詳しくは知らないけれど)、相互コミュニケーションが取れる新しい発信源だと思う。

だから企業はブランディングとか広告とか、タレントの場合は公式ファンクラブのような役割を担う。
ちなみに、今、話題の安藤美姫は公式のFacebookページを持っており、確かに今年になってから本人の写真などは掲載されていない。そして、一応公式コメントとしてFacebookのスタッフが書き込まれているので、それなりの役割を果たしている気がする。

だけど、政治家のSNSは、どうなんだろう?
そう言いながら、阿部首相や橋本市長のSNSに直接アクセスしたこともなく、ニュースやネットで話題になっているのを見ているだけなのだが、それにしても「一方的なんじゃない?」と思うことがある。

特に橋下市長は、そう思う。
「マスコミは一部の部分だけを取り上げて、繰り返し放送しており事実を捻じ曲げている」
「ニュースや新聞の取り上げ方では真意が伝わらない」
なんていうけれど、自分がタレントだった時には、そういうニュースについて結構噛みついていたじゃないか?

さらに、従軍慰安婦の問題とか、テレビの「小金稼ぎ」発言の問題とか、爆弾を投げる時には、電波媒体を使うけれど、謝罪する時にSNSってのも、何だかなぁって思える。
「都合悪い時には、自分目線だけで発信できるSNSに逃げてない?」

本来、政治家はいろんな誹謗中傷も含めた意見に耳を傾け、ディベートして自分の意見に対して理解してもらう事が大事な仕事なのに、そこを逃げて「真意が伝わらない」と言ってSNSを使う。
SNSなんかがなかった頃の政治家と比べると小さいなぁ~~と思ってしまうのである。

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2013年2月25日 (月)

自然界の迫力

最初は何だか分からないような報道だった。
「ロシアの隕石」の話だ。
Inseki
「隕石」っていうぐらいだから、やっぱり最初は「空からの落下」の姿がメインで紹介されていた。
そうそう、何度かこのブログで書いているが、本当に今は便利な時代だ。
ニュースで見なくたって、YouTubeで何度でも、いろんな映像を見られる。
それと、これは2年前の「東日本大震災」でも感じたが、携帯電話やスマートフォンのおかげで、一般人が気軽にその場で撮影できるようになり、「リアルタイムな映像」をずいぶん見られる。

今回の「隕石」の映像もYouTubeで見ると「空からの落下」とか「落下の軌跡がわかる雲」なんかがメインだった。
その後、いろいろな角度から解説されていたが、けが人が多さに関連して「衝撃波」について報告されるようになった。

実際、今回の隕石は地上に達する前に、バラバラになって燃え尽きて消滅している。
だから、「落下の衝撃」はないはずなのだが「衝撃波」の威力が想像を絶するものだったということが、映像から分かる。

「衝撃波」の仕組みは、私など素人が書くより、ネットで調べてもらう方が良いと思うのだが、先に書いたように「落下の衝撃」がないのに、「衝撃波」で窓は割れ、人は吹っ飛び、モノは散乱した。

2年前に起きた「東日本大震災」
この時、しばらくこの話題でブログを綴ったが、その津波の映像を「まるで特撮映画のようだった」と書いた記憶がある。
正確には「人が想像してミニチュアやCGで制作した映像以上の凄さ」だと思っているが、これは今回の「隕石の衝撃波」でも感じた。

あるテレビで隕石が落下するパニック映画の1シーンを流していたが、実際に映画で見られるような巨大な隕石が落下してくるのなら、今回の「衝撃波」どころではないエネルギーを味わうわけで、自然界の迫力は、まだまだ人間の想像以上のモノなのだと思う出来事だった。

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2012年8月20日 (月)

窮鼠猫を噛む

ものすごく画数が多い題名になった。
「きゅうそねこをかむ」って、漢字で書けって言われたら、絶対書けないな。

何の話かと言うと、最近の韓国や中国のことだ。
もうちょっと限定的に言うと「竹島問題」「尖閣諸島問題」のことだ。

Kyuusoおそらく両国ともこのタイミングは狙ってやっているのだろう。
日本的な言い方では「終戦記念日」、両国では「解放記念日」という大きな歴史的意味のある月に標準を合せていると思える。

そして私が子供頃よりも、はるかに少なくなってしまったがテレビでも「あの戦争を振り返る」番組も放送された。
その内容は、昔では分からなかった深く掘り下げた内容が多い気がするが、そんな番組を見ながら、今回の「竹島」「尖閣」のことを考えていたら、今回の題名のようなことが頭に浮かんでしまった。

昨年の東北大震災の時の、日本人の冷静さや公共性に対して、全世界から賞賛をいただいた。
と言っても、もともと私たち日本人がDNAとして持っているものの力が大きく、「改めて賞賛されても・・・・」と感じた人も多かったと思える。

そんな日本人がなぜ、あの戦争の引き金を引いたんだろう?
なぜ、開戦しなくちゃいけなかったんだろう?
もしかすると、今回のようなことが繰り返されて、ついに「窮鼠猫を噛む」ことじゃなかったんだろうか?

戦後、徹底的に「戦争を否定する教育」を受けてきた私だって思う。
「今回は、ちゃんと外交的に交渉しろよ」
「喧嘩を売っているのなら、そろそろ買うのもいいんじゃない?」
と。

もちろん戦争は困る。
でも、ここまで礼儀のない国がイチャモンつけてくるなら・・・・・そんなことを思ってしまうのである。

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