2020年8月17日 (月)

会社に行かない生活を準備

本日、63歳になった。
そんなことより今年はあらゆることが「コロナ禍」の影響を受けている。
8月といえば「夏休み」なのだが、学生たちは「緊急事態宣言」の影響で学校を休みにしたために通常の夏季休暇などで調整していて、3世たちも可哀想に、とても短い夏休みらしい。20200803

それに、今年コロナ禍にならなかったら「東京オリンピック」が開催され、昨年の「ラグビーワールドカップ」以上の盛り上がりになっていただろう。
過ぎてしまったけれど、7月後半の4連休は確か「オリンピック開幕」にあわせて今年限りのカレンダーだった。
ちょっと話はズレるが、昨年の今頃「来年の夏は、東京出張は無理だね」と話していた記憶がある。
きっとビジネスホテル等は「皮算用」をしていただろうが「世の中何が起こるのか分からない」という言葉が、今年ほど当てはまる年はない気がする。

コロナ禍の影響といえば、今まで書いてきたように仕事絡みが一番なのだが、個人としても「休みを取って旅行」ということが出来なくなっていることも大きい。
それに何となく「外食」も控えて最近は(出来合いのもので済ませているけれど)簡単な自炊生活にもなっている。
そのため5月GWも、7月後半の4連休も、そして今月の夏季休暇も、旅行などには行けず「家籠もり」になることが多い。
旅行に出かけられないのは他にも原因があるにしろ、やっぱりコロナ禍が大きい。
なにせ、最近は「日帰り温泉」もちょっと躊躇してしまっていて、本当に「コロナ前とコロナ後」と生活は大きく変わってしまった。

そんな「家籠もり」の日々が続くと「再雇用を終えて、会社に行かなくなると、どんな生活になるのだろう」と思うことが増えた。
ずっと会社勤めを続けてきて、定年後も再雇用としてやっぱり毎日会社に行っている。
日曜の夜や連休最後の日など「あ~あ、明日また会社かぁ」と思うのだが、考えてみたらそんな生活も、もう長くは続かない。
今月63歳になる私は、社内規定的には「要望すれば無条件に再雇用」される年齢ではなくなる。
このコロナ禍の時代、世界中どんな企業も(ごく一部を除いて)経営状態はよろしくない。
出来れば65歳の年金支給が本格的に始まる年齢まで、お世話になりたいと思っているが、それにしても10年とかいう単位で、会社勤めを続けることはない立場になっている。

休みの日に家でそんなことを考えていると「会社に行かない生活」というものを、そろそろ真剣に考えて準備しておかないといけないなぁと思うようになった。
自分が定年になってから感じるのだが「周りから必要とされていること」が、実はとても大切なのだと思うようになった。
「必要」と思ってもらわないと再雇用で勤め続けられないし、周りからの相談も受けない。
今は「会社」というところにいるので、それなりに「必要」とされているけれど、これが「会社に行かない生活」になったら、どうなるのだろう?

年齢を重ねるうちに「知識欲」は高まる一方で、いろんな史跡を訪ねてみたいし、いろんな本を読んだり、博物館・美術館へも行ってもみたい。
でも、それは「周りから必要」とされるわけじゃないので自分が「面倒だな」と思ってしまうと「何もしなくなる」ような気がする。(生来、とても怠け者なので)
63歳になり「会社に行かない生活」の計画を立てておかないと思っているが、このコロナ禍では、なかなかアクティブな計画がイメージできない。

以前、同じマンションで隣にいた人は退職後「何もすることがなくて暇で」と話していたが、そろそろ私自身もそんなことを心配する年齢になったということだ。
管理職時代に覚えた週単位、月単位、そして年単位で「行ってみたいところ」「読んでおきたい本」などのロードマップの作成を、まずは今年の「やること」にして計画する準備を始めてみようと思う。

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2019年10月 7日 (月)

お彼岸に咲かなった彼岸花

20191007_20191001112401 「彼岸花」「曼珠沙華」とも呼ばれる。
調べてみると「彼岸花」は、ちょうど秋のお彼岸の頃に咲くことで、「曼珠沙華」は仏典に由来するということで、いずれにしても「あの世」を連想させる名前だ。
あの独特の花の姿のせいか、多くの異名を持つらしいが、日本では「死人花」などダークな感じの名前が多い。

このブログでは「彼岸花の土手歩き」として2015年と「彼岸花の花嫁行列」の2回話題にした。
今年も「そろそろかな」と思い、9月の「お彼岸」に行ってみた。
近くまで行って気づいたが、いつものように渋滞していない。
それに(本当はいけないけれど)クルマを停める近くのスーパーも空いている。
「なぜかな?」と土手に向かうと、一面「緑色」
あちこちに数本咲いているだけで、ほとんどがツボミ状態だった。

「お彼岸なのに、咲いてないんだぁ」と思ってその原因を考えたが、どうやら「暑さ」らしい。
近くの学校の校舎脇には咲いているのだが、考えてみるとそこはあまり陽があたらない場所。
で土手はと言えば、どこも日差しが降り注ぐ場所なので、まだまだ暑い。
びっくりするくらい全く咲いていないので、その日は諦めて帰った。
ありがたいことにその「彼岸花の土手」は、私の住んでいる街から、高速で走って30分くらいなので翌週にもう一度出かけてみた。
この時は事前にネットで調べて「八分咲」となっていて、近くまで行ったら渋滞しているし、駐車場も満杯だった。
1週間前に比べれば綺麗に咲いていたが、まだまだツボミの株も多く、毎年見ていて「土手一面、真っ赤に咲き誇る」時を知っているので、「あと一歩だなぁ」と思いながら歩いた。

場所によっては綺麗に咲いているところもあり、土手下に多くのカメラを持った人が集まっていて「何だろう?」と思っていたら「花嫁行列」を待っているようだった。
昨年、たまたま出かけた時に遭遇したが、本来は「お彼岸」の時にやることになっているイベント。
でも、今年は「全く咲いていなかった」ので、どうやら延長したようだった。
あと2日で10月になるというのに、まだまだ暑くて「花嫁衣装の下は汗だくだろうなぁ」と思いながら、土手歩きを楽しんだ。

翌朝、新聞を開くと「この地方のニュース」として「満開の彼岸花の土手をいく花嫁行列」を紹介していたが、同じ日の同じ時刻にいたこちらとしては「上手に満開の雰囲気に撮影しているなぁ」と変な感心をした。
まぁ、このあたりの演出は、こちらも同じような仕事をしてきているので「自分でもそうするよね?」と思わないでもなかったが……。
地球温暖化がどんどん進んでいくと、そのうちに10月終わりとか11月初めくらいにならないと満開にならないようになってしまうかもしれない。
そんな時代まで生きていることはないだろうけれど。

ちなみに今年の田んぼアートは「牛をつないだ椿の木」で、新美南吉の中では有名じゃないかもしれないが、個人的にはとても好きな作品だ。
中学1年の「現代国語」にこの話が載っていて、妙に印象深く残っていて、2~3年前に近くの「新美南吉記念館」でもう一度読み直した物語だ。
いろんな意味で印象に残る今年の「彼岸花の土手歩き」だった。

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2019年8月26日 (月)

残っていた北恵那鉄道の映像

7月の終わりの日の朝。20190826
いつものように出社前に新聞を見ていたら、TV欄に「岐阜の山奥に奇跡の廃線」との見出しがあった。
案内は鉄道マニアとして有名な俳優「六角精児」とある。
「もしかすると我が故郷のあの路線のことかな?」と思ったので録画予約して出かけた。
帰宅して観ると、やっぱりそうだった。
わが故郷に高校生の頃まであった「北恵那鉄道」

番組は、その廃線跡を巡るもので、最後に映った「奇跡の鉄橋」は、私が住んでいたところから、クルマで5分の場所にあるものだった。
20分くらいのコーナーだったが、途中流れたVTRは私の卒業した高校が制作した8mm作品だった。
動く「北恵那電車」、そして「私の街にあった駅に乗降する客」、子供の頃に見ていたシーンがそのまま映されて、どっぷりと懐かしさに浸った。

「北恵那電車」は「中津町から下付知」まで「付知川(番組では木曽川と言っていたが、本当は支流の付知川)沿い」を走る鉄道だ。
お袋の実家が途中駅である「苗木」だったので、小さい頃は良く電車に乗った。
子供にはよくあることで「大きくなったら北恵那電車の運転士なりたい」と思ったものだ。
ちなみこの「苗木」は、近年「苗木城」が有名になった。私の子供の頃は、石垣だけが残りウッソウとした荒れた城跡だったが。さらにこの「苗木」あたりは江戸時代には「遠山の金さん」で有名な藩だ。
今でもあの地方には「遠山姓」は多い。

子供の頃、車酔いが激しくて「車に乗って出かける」と思うだけで憂うつになる子供だったが、この「北恵那鉄道」は酔うこともなく楽しくて仕方ない電車だった。
もっともTV番組でも言っていたが「時速40km」でゴットンゴットンとゆっくり走っていたので、酔うほどのことはなかったが。
山並みを縫うように線路があり、そこを1両か2両で走る。
小さい頃は、年に1回「くりもと」というところに家族全員で出かけ、付知川で泳いだりして1日楽しむことが恒例行事だった。
この「くりもと」もTV番組で「廃駅」として出てきて、当時の写真も映され、懐かしさ倍増だった。

私が高校卒業する頃までは存続していたので、付知方面から通学してくる同級生はみんな「北恵那電車」に乗っていた。
お袋の妹である叔母は「北恵那電車は昔満員だった」と小さい頃話してくれた。
真偽は不明だが、その叔母によると「登り坂で電車が停まりそうになると、男子学生が外に出てみんなで押していた」というから、全くのんびりした時代だし、TVで言ったように「日本の原風景」だったことは確かだ。

私の卒業した高校が制作した8mmビデオが「YouTubeにないか?」と探したらあった!
制作年を見たら、私が卒業したすぐあとに造られていた。
よくぞ残してくれたものだ。
そして、こういうものがネットを通して観られるなんて、とても幸せな時代である。
やはり映像はすごい。一瞬にして50年以上前の風景が記憶に蘇る出来事だった。

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2019年6月10日 (月)

近場の美術館~立川美術館

GWに出かけた近場の話、第2弾。20190610
「立川美術館」と言っても誰も知らないだろう。 
全く有名でないし、規模も小っちゃい。「小さい」というより「小っちゃい」という言い方が当てはまる感じのところだ。
入場料が「200円」と聞けば、その規模が分かるだろう。
何の美術館かと言えば、「山車の彫刻」とかなりニッチな分野だが、逆になかなか気軽に見ることが出来ないものだ。

私の住む中部地方は、あちこちに「山車」がたくさんある。
有名なのは「高山」で多くの観光客が訪れるが、名古屋を中心に30~40kmくらいところに、いくつでもある。
この「山車」は、2016年に「山・鉾・屋台行事 ユネスコ無形文化遺産」に登録されて盛り上がった。
あるきっかけがあって、私はここ2~3年名古屋近郊の半田市で行われる「潮干祭(しおひさい)」というものを見に行く。
この半田市、以前「彼岸花の土手歩き」「彼岸花の花嫁行列」で紹介した地域だ。
ちなみに、美智子上皇后の話題で出てきた「でんでんむしのかなしみ」の作者である新美南吉も、この地域の出身だ。

この地域、3月後半から5月GWにかけて、毎週末どこかで「山車」が出るお祭りがある。
なので、5年毎に「はんだ山車まつり」として30台以上の山車を勢揃いさせる。これは何十万人と集まるので、敬遠して行っていないが……。
とにかくやたらと「山車」がたくさんある地域だ。
この「山車」には、「からくり人形」もあるが装飾の彫刻が見事で、また「山車」ごとに違う彫刻が創り込まれている。
その彫刻の技術伝承という意味でこの「立川美術館」があるらしい。

小さなところなので、当然ほとんど人がいなくて、その施設の人が横について説明しくれたのだが、一度「立川流」は途絶えたが、子孫の許可を得て再興させたとのことだった。
詳しくは「立川美術館http://www.tatekawa.org/index.html)」を見てほしいが、なかなかこう言った彫刻を、説明を聞きながら、しかも写真撮影もOKで、間近で見られるなんて、なかなかない。
これが京都の祇園祭の山鉾のように「超有名」な装飾に関する美術館などがあったら、ものすごく観光客が集まる気がする。
まぁ、そうなると撮影はできないし、気軽に行けないし、混雑するから嫌だけれど。

せっかくの長い休みだったが、かえってどこも混雑することになったが、おかげで近場の面白いところに行けたこと、そしてまだまだ近くに「おっ」と感じるところがあるなぁって思えたGWだった。

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2019年6月 3日 (月)

近場の史跡巡り~華蔵寺(吉良家菩提寺)

6月になったが、今年のGWは10日間もあったので、その時の話題を……。
とは言え、「この長期休みを利用して、どこか遠くへ」ということではない。
いろいろ事情はあるが、主な原因として「どこに行っても混雑するよね」と思っていたので「泊りがけでどこかへ行く」なんてことはしなかった。20190603_1  
話はちょっと逸れるが、最近はどこへ行っても観光客が多い。
それも外国の人が、とんでもなく多い。
「日本人もあまり知らないようなところなのに」と思うところでも、外国人の観光客を見かける。
人種偏見はないように気をつけているが、ワケも分からず大きな声で喋られたり、日本的にきちんと順番を守るというルールに従えない団体に会うと、腹立たしくなるし、うんざりする。
だから、最近は「行ってみたいなあ」と思っても「混雑してるだろうな」と危惧することが多い。

でもせっかくの長い長いGW、どこにも行かないのも勿体無いので、ちょこちょこと近場に出かけてきた。
その中で、たまたま寄ったところが、今回の「華蔵寺」
ここは、ネットで見つけていて近かったので「いつかは行こう」と思っていたところだ。
場所は愛知県西尾市。
ここはちょうど4年前に「近くの穴場~西尾城」で紹介したところだ。
その頃から徐々に分かり始めたが、この西尾市は江戸時代には「西尾藩」といい、歴史的に有名でないが、史跡を巡るとたびたび「えっ、ここも西尾藩の関連なんだ」と知る重要な藩だ。

●華蔵寺
愛知県西尾市にある臨済宗妙心寺派の寺院。高家吉良家の菩提寺。
吉良義央の曾祖父である吉良義定が旗本として吉良家を再興した際に、父義安の菩提を弔うために創建した。吉良家墓所には、義安から義央の継嗣義周まで6代の墓がある。そのほか、義央50歳の時の木像や義央寄進の経蔵などがある。(ウィキペディアより)

この「吉良義央(よしひさ)公」が、かの有名な「吉良上野介」のことだ。
この人は、全国的に「赤穂浪士の敵」として憎まれているが、地元では数々の善政を敷いた名君として愛されている。
それは以前から聞いていたのだが、ナビに案内されながら向かう途中に「赤馬ロード」との看板を見て、「これ何だろう?」と思ったが、寺に着いて分かった。

寺で見た資料によると、義央公は水害を防ぐために堤を築いたり、領民の状況を調べるために「愛馬赤馬」に乗り巡視して周り、とても領民から人気があったとのこと。
この「愛馬赤馬」は寺の資料では「農耕馬のような」となっていたが、ネットで見てみるとそのような説明はない。
いずれにしろ、地元ではとても愛されており、吉良家もあちらこちらに寄進していて、すこぶる良い関係だったことがわかる。

さすがにここには外人の観光客はいなかったが、他に2組くらいの観光の人が訪れていた。
しかし以前、赤穂浪士の墓のある「泉岳寺」を訪ねたことがあるが、そこは煙いくらいに線香が炊かれていたのに比べ、この華蔵寺はひっそりとして、あまり整備もされていなかった。
この人気の違いに、ちょっと残念な想いだったが、5月の良い天気の中、静かな史跡を巡り、新緑に囲まれてウグイスの声を聴く空間は、至福のものだった。

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2018年12月25日 (火)

明治村へ行ってきた

東海地方に住んでいる人は、昔からあるところだから知っている「博物館明治村」
明治時代の建物を移築して保存している観光施設だ。
のちに、「大正村」「昭和村」と同じく東海地方に生まれたが、ここが発祥なんだろう。
なにせ、私が小学校のころからある。
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名古屋からクルマで1時間くらいの距離なので近いのだが、実は行ったのは小学校の遠足(だったと思う)以来なので、50年ぶりと言うことになる。
 
昨年あたりから「近場の史跡巡り」をブログに載せたりしてきたが、その流れから「そういえば、近くに良い所があるなぁ」と思っていた。
さらに言えば、本を読んだり史跡を訪ねたりしていくうちに、歴史の流れも分かってきたことも興味が高まってもいた。
 
日本人の多くは、京都や奈良、日光など修学旅行で行く。
けれど、歴史やその背景も知らずに(もしくは興味を持たずに)見ている。
大人になって、歴史の流れや背景が分かってから、そのような場所を訪れると興味は倍増するし「良く保存されているなぁ」と感心する。
なにせ子供だから、机に座って勉強しないだけで嬉しいから、修学を目的で旅行はしていないので、仕方ないのだろう。
 
と言うことで、明治維新後、日本が欧米文明に必死に追いついていこうとする時代の中を生き抜いてきた建物を「ちゃんと見ておこう」と思って出かけてきた。
行ってみて思ったが、広い。
なにせ50年振りで、前回の記憶はほとんどない。
10時に入場して、午後5時から始まる「イルミネーション点灯」過ぎまで、ほとんど休みなく歩いて見学したが、それでも途中では「サラリ」と見る感じで、飛ばして廻ってきた。
 
行ったのは11月後半の3連休だったので、ちょうど紅葉の時期。
私のように純粋に「明治の建物を見学しよう」と言う人もいたが、それよりも多かったのはイベントに参加している若い人たち。
行った時には「帝國ホテル支配人の偉大なる推理」というイベントが開催中で、建物の部屋に隠されたアイテムやパズルを解きながら進むリアル脱出ゲームをやっていた。
展示物など見向きもせずに、ゲームに熱中する人が多く、何の展示物もないところや建物の外にたくさん座り込んで遊んでいる人がやたらと沢山いた。
 
これはこれで、リピート入場者を増やすには良いようで、一時期よりも入場者は増えていると後日会社で同じ部署の人間に教えてもらった。
確かに、私みたいに「歴史的視点」だけで来る人だけでは、莫大な広さにある各施設の保存に掛かる費用を賄うのは大変だろう。
それに多くの人が来た方が、売店や食事するところ、そしてトイレやいろいろなものが充実するし、綺麗になる。
 
ただ、私の視点からすると、もう少しだけ建物の説明が書いてあるパネルがあると嬉しかった。
いくつかの建物では、「時間で区切られたガイドツアー」でないと入場できないようになっていて、マイペースで見たい私のような人間には「がっかり」と思う部分もあった。
 
「平成」という時代はあと4ヶ月で終わる。
そんな年の終わりに「明治」という時代の建物を見てきたのはある意味、感慨深かった。
いつものように、左にアルバムを掲載したので、興味があったら見てください。
そうそう、たまにコメントをいただく楽美さん が、紹介していた「江戸東京たてもの園」 にも、いつかは行って見たいと思って「明治村」を後にした。

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2018年12月17日 (月)

司馬遼太郎の戦国時代再び

読みたい本は基本的に購入する。
なぜかと言えば、サイクルはそれぞれだけれど、読み返すことがあるからだが、図書館で借りると期限が気になるし、いつ読み返したくなるか分からないので、本棚が徐々に埋まっていく悩みもある。
 
20181210
最近は、「時代小説」のなかでも「江戸情緒」系の話が多いが、20~30代の頃は、司馬遼太郎氏の歴史小説オンリーだった。
この話は、このブログで何度か話題にしたが、ほとんどの小説は読んだのじゃないかと思っている。
 
先日、ふと本棚を見ていて、「久しぶりに司馬遼太郎を読もうかな」と思い立った。
幕末ものはやっぱり面白かったので、何度か読み返してきている。
今年、ブログに良く紹介しているが、近場の史跡巡りをしていて、ちょうどその舞台でもある「戦国時代」にしてみようと考えた。
 
司馬遼太郎氏の「戦国時代」小説は、「国盗り物語」「新史太閤記」「関ヶ原」「城塞」と揃っている。
「国盗り物語」は、斎藤道三から織田信長の時代の話、「新史太閤記」は、秀吉。
そして「関ヶ原」では、秀吉から家康への移行、最後の「城塞」は大阪の陣で、徳川政権確立までと、順番に流れに沿って読める小説だ。
 
この辺りの小説を読んだのは、はっきり記憶がなく、多分30年くらい前だったと思う。
だから全く覚えていなくて、まるで初めてのように、とても新鮮に読み始めた。
そして、ここのところ訪れた「岐阜城(稲葉山城)」「小牧山城」「清洲城」が舞台となるので、さらに面白い。
 
小説が書かれた頃から、新しく分かった史実もある。
例えば「小牧山城」の場合、「岐阜城(稲葉山城)」の前に初めて「城下町」を造ったのではないか?とか、つい最近新聞に載っていたが、城主と家来の住まいの場所を高さとしてはっきり区別したとか。
それをより具体的にしたのが「岐阜城(稲葉山城)」だったのじゃないか?とか。
 
それに「楽市楽座」は、信長ではなく道三が始めたこととか。こういうのを読むと、またその場所に行き「この風景、この角度から彼らは街を眺めていたのか」と感じてみたくなる。
特に「岐阜城(稲葉山城)」を訪れた時の、眼下に広がる長良川の蛇行した様子を想像しながら読むのは、実にワクワクする。
 
まだまだ今は「国盗り物語」を読み終わりそうな段階。
これから本格的に秀吉、そして家康、最後には真田幸村と続く「城塞」まで、ワクワクしながら読み返すことにしよう。

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2018年11月 5日 (月)

近場の史跡巡り~うだつの上がる町、美濃。腹立ち訪問記

「うだつの上がる街」「無形文化遺産の和紙」で名前が知られる「美濃市」に、今月初めに行ってきた。先にちょっと怒りコメントを書いておく。
20181029
狙っていったわけじゃなくたまたまその日が「美濃和紙あかりアート展」の開催日だったことが災いの始まり。
事前にネットで調べて「美濃市観光ふれあい広場普通車駐車場」を目的地にナビで向かった。
ところが、パイロンが並んでいて誘導のおじさんが前の方に腕を振っていて入れない模様。
仕方なく進んでいっても案内の看板はなく、「うだつの上がる街並み」の角に立っていた誘導のおじさんに聞くと「小学校に停められるよ」と言われた。
で、ナビ画面を見ながら近くに行っても「案内看板」はない。
そのうち「裏道」みたいなところに入り、どうみても入り口じゃないところに出た。
そこからグランドが見えて、クルマが停めてあり、係りの誘導員が二人立っていてこちらを見ていたが、何も言わない。

「じゃここから入るのか?」と思ったら、クルマの底を摺った。「じゃ、どうするの?」と誘導員に大声で聞いても、遠くから指差すだけでよく分からない。
仕方ないので指差す方の細い道を行くと広い道にでて、やっと小学校を見つけた。
しかも「協力金500円」を取られたので「全然、案内看板もないし、そこでクルマこすったよ」と文句を言ったら「じゃあ、観光協会に言った方が良いですよ」と他人事のように言う。

クルマを降りて床下を見て、最後の細い道で脇の生垣の木で擦った跡を見たら、いくつかの線が付いている。タオルで拭いたら取れたけれど、もう腹が立って仕方ない。
なぜか、こういう田舎のイベントに行くと駐車場の案内がなく、迷うことが多い。
さらに誘導も悪く、チコちゃんじゃないけれど「ボーっとしてんじゃないよ!」と怒りたくなる誘導のオジサンが立っているだけということが多い。
普段は混まないから、慣れてないのかもしれないが、「美濃和紙あかりアート展」自体「第25回」となっていたから、もうちょっと観光客をうまく誘導する看板を立てるとか、誘導員に指示するとかして欲しいものだ。
それだけのことで、とても印象が変わると思うので、考えた方が良いとおもう。

さて、肝心の「うだつの上がる街並み」
最初に「旧今井家住宅・美濃史料館」に入ってみた。
ここでは、たまたま解説してくれる人がいて詳しくお話をしてもらった。
「障子の千鳥貼り」は初めて知ったし、見えない床の間の天井板に「屋久杉」が使用していたり、「水琴窟」のある庭があったり、大豪商の贅を尽くした住まいを見て驚いたが、逆に「こういうところにお金を使うのは粋だよね」とも思った。
それは、なんとかタウンの社長のようにタレントと札束切らして観光している写真をSNSに載せたり、宇宙旅行に行くと発表したりして大金持ちアピールへの反感かな?

その後、街並みをぶらぶら。
「美濃和紙あかりアート展」自体は夕方5時に灯りが点り、夜に掛けてがメインなので、街はまだ準備中。ただ、街並みとしては確かに「うだつ」は多いけれど、ところどころに普通の家やお店もあり、「ちょっと寂れた町」に見えてしまった。
街並みの長さは、ほんのちょっとだったけれど、「有松宿」 の方が雰囲気はあった気がする。

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2018年10月15日 (月)

渋温泉再び_上田城 編

2日目。
温泉に泊まる時の恒例の朝風呂に入り、朝食へ。
その後、「今日は猿が来ているかな?」とライブカメラを見たが、1頭もいない。
仕方なくあきらめてチェックアウトした。
ちなみに翌日ライブカメラを見たら、多くの猿が降りてきていた。今回は縁が(猿?)なかったなぁ。
20181015
クルマに乗って、前回寄った道の駅へ。
前回は、「ムカゴ」「ノビル」など秋の味覚満載だったが、ちょっと時期が早かったせいもあり、全然なく残念だった。どうも今回は希望通りに行かないことがいくつかあったが、その原因は季節や天候など自然が相手だから仕方ない。

「地獄谷野猿公苑」が見られなかった分、少し時間が早かったので、昔「野沢温泉」に出かけた時に寄った「高橋まゆみ人形館」へ行った。
前回はえらく混んでいたが今回はお客さんも少なくじっくり見ることができた。

そこから上田市まで高速道路で移動。
上田市について周りを山に囲まれ、広い平地のある地形を見て「ここを重要な拠点」と戦国時代に言われた理由が分かる気がした。
クルマを停め、上田城へ。

大河ドラマの「真田丸」「ブラタモリ」の影響か、すっかり観光的に整備されていたが、いろいろな城を見てきたせいか、とても興味深い城郭だった。
特に尼ヶ淵は時代の違う石垣が幾重にも重なり、初めて見る石垣群だった。
また東虎口楼門でつながる北櫓と南櫓の見学で見られた「上田戦争」のVTRは面白かった。

池波正太郎氏の「真田太平記」で読んでいるので、一次・二次の上田戦争の背景や小松姫の逸話など知っていて、結果も知っているけれど、その場所でVTRを見ながら各兵の動きを確認するのは楽しかった(かなりマニアックな楽しみ方だけれど)。
他の見学者も「分かりやすかった」と言っていたので、一般の人にも面白かったのだろう。

余談だけれど、「桶狭間」「小牧・長久手」「関が原」「大阪の陣」など戦国時代後半の大きな戦いは、ジオラマなどを使って「俯瞰」で見られると分かりやすいと思うし、その全体の流れがわかって、映画・TVや小説を読むと、また面白くなる。

上田城は大きくないけれど、博物館にも寄ったりして、夕方近くになってしまった。
出来れば「池波正太郎記念館」にも寄りたかったが、時間的にも厳しくなってしまってあきらめた。
結局「野猿公苑」「秋の味覚」「池波正太郎館」など積み残しの多い旅行だったが、「こりゃもう1回は来ないといけないかなぁ」と思い帰途に着いた。

最後にスマホアプリのカーナビで帰ったが、上田から「新和田トンネル」を通って岡谷ICまで高速道路じゃない経路で案内された。昔の「和田トンネル」は10代の終わりに仕事で通ったことがあったが、ほぼ40年ぶりにこの辺りを高速以外で運転した。
昔の「和田トンネル」は狭く、排気ガスが充満していたし、道も細く怖かったが、今はずいぶん走りやすい良い道になっていた。それだけクルマで移動する人が多くなったということなのだろう。(おわり)

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2018年10月 9日 (火)

渋温泉再び_地獄谷野猿公苑 編

先に結果を書いておくが、今回のメインの1つだった「地獄谷野猿公苑」は、猿が来ていないということで空振りに終わった。
出かけたのは、9月の後半の3連休で、初日は天気が悪く、道中ずっと雨だった。
20181009
「どうかなぁ~」と入り口まで行ったが、係りの人が「今日は1匹もいない」と話してくれた。
その頃には、雨も上がっていたが、山特有のモヤが全体に掛かっていて、何度か見学場所までの誘導を試みたが「猿が動きたがらない」とのこと。
「まぁ、動物園じゃなく自然の状況だから」と諦めた。
翌日の朝も、スマホから「ライブカメラ」を見てみたが、やっぱりいなくて、「今回は縁がなかったなぁ」と残念な結果だった。

さて、今回は2016年に行った渋温泉を再び訪ね、「地獄谷野猿公苑」「渋温泉外湯後半戦」、そして「上田城」の3つの目的で出かけた。
最初に向かったのは「地獄谷野猿公苑」
天気予報では、現地は午後から小雨もしくは雨が上がるようだったが、最初に書いたように、山全体にモヤが掛かって、「すっきり」晴れる感じにはならなかった。

それでも「せっかく来たから」とクルマを停め「公苑」まで歩き出した。
片道20~30分掛かると案内があり、駐車場からすぐの飲食店の前にいたスタッフが「今日はいないようですよ」と教えてくれた。

ずっと山の中を歩いて向かったが、帰ってくる人の半分以上が外国人。
ここでもやっぱりインバウンドの影響を感じざるを得なかった。
入り口前は「地獄谷噴泉」のすぐそば。
今まで、有馬温泉をはじめいろいろなところで、源泉場所を見たが、ここまでずっと勢い良く吹き出ている噴泉は初めてだった。
周囲はずっと硫黄の匂いがして、「大自然の贈り物」の感じが満載だった。
その後「野猿公苑」に行ったが、最初に書いたとおりで、諦めて山を降り宿泊する旅館に行った。

前回は「温泉街の入り口側だったので、今回は「一番奥側」に宿泊。
チェックインしてひと休みしたら、まだ明るい時間だったので、外湯巡りへ。
前回行けなかった「五番湯 松の湯」「六番湯 目洗いの湯」「七番湯 七操の湯」「八番湯 神明滝の湯」の4ヶ所。そのうち「六番湯 目洗いの湯」は改装中と言うことで入れなかったが、残りは全部巡ってきた。

今回、同じような順番で巡る人と「ここは熱いね」とか「あそこは、ちょうど良い湯加減だった」などと話すことがあり、こんなことも外湯巡りの面白さなのだと気づかされた。
また外人のカップルが写真を撮りながら巡っているのにも遭遇。
でも漢字が読めないのか、「巡り用の手拭い」「外湯の名称」を一生懸命見比べていたので、ちょっと声を掛けてあげた。
英語は全く分からないが、どうやら「手拭い」の表裏も分からないようで、「こっち」と手まねで教えてあげた。

その後、旅館に戻り休んで夕食へ。
そこで初めて「鯉の洗い」「鯉こく」を食べた。特に「鯉こく」は江戸時代小説などに出てくるので「へぇ~こういうのなんだ。臭みとかないんだな。」と思ったが、骨がメチャクチャ硬くてびっくりした。
お腹いっぱいで部屋でTVを見ながらゴロゴロした後、次は旅館のお風呂へ。
露天は2人入ればいっぱいの小ささだったが、渋温泉全体が見える眺望で、前回と違って楽しめた。
(つづく)

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