2016年4月25日 (月)

CMのチカラ(熊本地震によせて)

このブログでは東日本大震災が起きた時に、連続して関連の事項を書いたことがある。
あれは備忘録的であり、なおかつそれまで経験のない規模の災害であり、そのままいつもの日常を送るにはショックすぎる出来事だという色んな想いが詰まって書いたことを覚えている。

最初は局地的であり、とても表層的な地震だったと思えていたのだが、最初と次の日は、夜中の間ずっとスマートフォンの地震警報が鳴り響くという異常な状態となった。
私のスマホは「震度5以上」でないと通知されない設定にしてあったが、それが頻繁に鳴る。
「おかしいなぁ」と思ったら2日目の夜中のものが「本震でした」と訂正発表があった。

「やっぱり何も分からないんだなぁ」

最初に話題にした東日本大震災や、1年半前の御嶽山の突然の噴火の時も、もう少し身近な例で言えば、梅雨から夏に起きるゲリラ豪雨にしても、ほとんどのことが発生前には把握できていない。

私が2歳の時に伊勢湾台風が来て、甚大な被害を受けたことがきっかけで富士山レーダーができ、そして今では宇宙からカラー映像で気象やGPSでのズレを監視できるようになった。
伊勢湾台風の時代からすれば、ものすごい科学力を持って自然と対峙しているけれど、でも今回も無力だった。

そんなことを思っていたら、ネットに「九州新幹線のCMが再び話題に」と載っていた。
ちょうど東日本大震災の2日前に開通した九州新幹線だったが、ほとんどTVに流されなく、でもあの当時でも「元気をもらえた」と話題になったCM。
今回、また「九州」ということで話題になった。
YouTubeにあるので、見てみたら、やっぱり良かった。

そして「ああ、CMには、こんな力があったよね」と自分が若かった頃思っていた気持ちを思い出した。
商品名や企業名を覚えてもらうだけでなく、形のない何かエナジーなものを心に気づかせてくれる。
CMには、こんなチカラもあることを、今回の震災が改めて気づかせてくれた。

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2014年12月 1日 (月)

日本人は、いつから褒められるようになった

今から思えば「東日本大震災」がきっかけだっただろうか?
世界から「日本人」の振る舞いや行いが褒められることが、ニュースとしてネットに流れることが増えた気がする。

Nihonzinそんなことを何となく思っていたら、中国の掲示板に「なぜ日本に行く中国人の多くが帰国したがらない?」というスレッドが立てられたというニュースを目にした。

スレッドが立てられたのは去年のようだが、私が目にしたのは最近。
「天国から地獄に帰るやつはいない」とか過激な言い方ではなくて、
「中国国内で教えられた日本と違っていた」
「夜でも安全に歩くことができる」
「顔しか知らない近所の人が人種差別もなく、笑顔で挨拶してくれる」

などなど、日本とか日本人にとって、当たり前の出来事を褒めてくれていた。

じゃ、日本人は昔から褒められる人種だったか?
あるテレビでやっていたけれど、明治になったばかりの頃、外国人からは「日本人は時間にルーズで、ちっとも約束を守らない」と言われていたとか。
それは江戸時代の「時鐘」の習慣があり、「時計」のように1年中同じ時刻を刻む生活に慣れておらず、だから「時の記念日」を制定したのだそうだ。

江戸時代は、陽が昇る時と沈む時を基準としていたので、夏と冬の時間は違っていたから、その習慣が抜けなかったのだろう。
そんな話を聞くと、新幹線が秒単位で運行できるくらい時間に日本人が几帳面になったのは、つい最近のような気がする。

「東日本大震災」の時に世界から称賛されたパニックにならずに、整列していた礼儀正しさは、いつからなのだろう?
関東大震災の時の写真を見ても、同様に整列している姿がある。
だから、大正時代には、すでにそういう日本人だったのだろう。

そういえば、「東日本大震災」の時に読んだある記事では、江戸時代に大火事や震災があった時に、幕府はすぐに「お救い小屋」を設置して、米やおかゆを提供したとのこと。
そうすると、すでに江戸時代には、ちゃんと整列する礼儀が身に付いていたのだろうか?

日本や日本人が世界から褒められるのは、嬉しいけれど、それは元々日本人のDNA的なものなのか?それともいつ頃からか身に付けたものなのか?
単に嬉しがっておらずに、見つめ直しておきたい気持ちになった。

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2014年5月19日 (月)

人の中に棲む善と悪

ちょっと古い話だが、サッカーのスペインリーグで、ブラジル人選手に対しバナナを投げつけた観客のことが話題になった。
バナナを投げた観客はブラジル人選手に対して「差別的な意味」でバナナを投げつけ、それに対し選手はピッチの中で、平然とバナナを食べ、プレイを続けた。
その冷静な態度は賞賛を呼び世界中のアスリートが「バナナを食べるパフォーマンス」で人種差別撤廃を訴えた。Zinnsyu

他にもアメリカのプロバスケットボールで、あるチームオーナーが人種差別的発言を行い、そのチームの選手はユニフォームを裏返しに着用し試合に出て、抗議の意志を示した。
プロバスケット協会は、そのオーナーに250万ドルの罰金と永久追放処分とした。

東日本大震災の時の冷静な態度で世界中から称賛された日本人だって、悲しいけれど、同じようなことをやっている。
熱狂的サポーターで知られる浦和レッズでは、心ないファンが「JAPANESE ONLY」の横断幕を掲げ、チームの管理責任という形で無観客試合を実施した。

その他にも昨年の7月に書いたような「ヘイトスピーチ」のように最近では日本人も差別的発言や行動が報道されるようになった。これは、最近の中国や韓国との関係が起因しているのだと思えるが、それにしても悲しい言動だ。

例の韓国船沈没のニュースを見て「日本人はそんな無責任なことしない」って思う人がほとんどだろう。欧米では「タイタニック号」の沈没を例に出して、船員やクルー(映画でもあった音楽隊までも)が乗客の安全を第一として行動し、自らは船とともに沈んだと言っているらしい。

でも、人にはどうやら自分でも気づかない「悪い」虫がいるらしい。
そうでなければ、東日本大震災で世界中を感動させた日本人が、ヘイトスピーチのような悲しむべき行動をすると思えない。

池波正太郎氏は「鬼平犯科帳」の中でこんな言葉を残している。
「人は良いことをしながら悪いことを、悪いことをしながら良いことをする。まことに不思議なものなのだ」。
だから、私の中にも「善と悪」が同居していることを自覚しているけれど、出来ればちょっとだけ「善」の心が多い人間でありたいなと思っている。

世界中で起きている差別的言動のニュースを見ながら、そんなことを思ってみた。

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2013年9月24日 (火)

ドラマの見方(記事数990件目)

6月に「TV番組2つ」 として話題にしたように、今年は珍しくドラマを見ている。
そしてこれも珍しく2つともNHKのドラマだ。Doramanomikata

久しぶりに一生懸命ドラマを見ていて気が付いたが、今の時代はドラマとネットがとても密接に繋がっている。
今ではドラマのHPがあるのは当たり前だが、見ているファンたちの「ブログ」「Twitter」の他、ドラマの「Facebook」にスマホの「アプリ」と実に多岐に渡って「ワイガヤ環境」が構築されている。

こう書くと冷静に観察しているようだが、そうでもない。
今週で終わってしまう「あまちゃん」は、アプリでその日の放送のあらすじがアップされるので、家で録画を見るまで我慢できずに見ているし、「八重の桜」もファンの人のブログを見たりしている。

そんな中「ドラマって人それぞれの見方があるんだなぁ」と思うことがあった。
「あまちゃん」でのこと。
9月になり、いよいよ「3.11東日本大震災」の日をドラマで迎えた。
その表現方法にずいぶん驚かされたが、ドラマの中で原発事故に触れてないことを指摘して「NHKの御用ドラマだ!」とツイートした人がいた。
それに対して「このドラマは、大震災や原発事故がテーマじゃない。何でもその関連に持っていくのは放射脳(誤字じゃありません、こういう揶揄した言い方があるようです)だ」と反論する人たちがいた。

「八重の桜」でのこと。
4回に渡って放送された「会津戦争」の表現。
「官軍の酷い略奪や、何カ月も放置されたまま(官軍が賊軍の遺体を片付けるのを禁止した)の状況がカットされ、生ぬるい」という人がいた。
今回のドラマで、私は戊辰戦争での会津側の状況を初めて知ったし、官軍の横暴さも知ったけれど、もともとこのドラマは「八重」という個人の女性を通しての幕末から明治を描いたもの。
確かに会津出身でライフル片手に男顔負けに戦った八重にとって、戊辰戦争は大きな出来事だけれど、官軍の略奪や横暴を描く必要があるかどうか?

いずれにせよ、ドラマと言うのはいろんな見方があるし、ネット時代になって個人の意見がいろいろ氾濫するようになったのだなぁと、今年初めて気づかされた今回のドラマ鑑賞だった。

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2012年7月 9日 (月)

雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ

朝、通勤はクルマで行く。
昔はクルマの中のワンセグTVで「めざましTV」を点けていたが、最近は「おはよう日本」を点けている。

Amenimoそこで、5月8日に「被災地に響く宮沢賢治の言葉」として、岩手県が生んだ詩人・宮沢賢治の作品が被災地や被災者の支えになり、9日から東京で始まる著名な俳優などによる復興支援の朗読会、「雨ニモ負ケズ」の一節に力をもらう被災者…。賢治の言葉が震災を経た今に響く様などを紹介していた。

このコーナーの後、「おはよう日本」のメインキャスターである「阿部渉さん」、「岩手は私の故郷で、小さい頃から『賢治』の詩は……」とコメントしていた。

実は私自身、宮沢賢治のことは詳しくない。
本をちゃんと読んだ覚えもない。
1つだけ映画の「銀河鉄道の夜」を見たぐらいで、全くと言っていいほど、知らない。
でも、彼がとても素晴らしい詩人で作家であったことは、何となくわかっている。
このコーナーでも「何十年も昔の言葉が、今でも被災者に勇気を与える。そんな言葉の力の凄さを感じます」と言っていたが、宮沢賢治の「言葉のパワー」は並外れているのだと思う。

けれど、彼は「宮沢さん」とか「宮沢先生」とか呼ばれない。
東北の人は何故か「賢治」と呼ぶ。
それだけ、地元民との意識レベルが近かったのだろうか?
彼のことを全く知らない私でも「宮沢さん」という響きはフィットしない。
「宮沢賢治」もしくは「賢治」と言われると、初めて「雨ニモ負ケズ」という言葉とフィットする。
この感覚は何だろう?

東日本大震災は日本のいろんなものを見直すきっかけを与えられた。
もしかすると「宮沢賢治」も、その中の1つかもしれない。

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2012年3月 5日 (月)

安全な場所からの「がんばろう」

今回の文章は、もしかするとものすごく反感を買うかもしれない。
特に小さいお子さんを持っている女性からは「無責任な」と怒られるかもしれない。
けれど、記録として記しておきたいと思ったので、書くことにした。

Garekisyori「東日本大震災」のがれき問題だ。
昨年の夏にも「花火」「松明材」などでも話題になったが、あの時は対象物が一過性のものだったから、その時期が過ぎれば話題が消え去った。
今回は違う。

未曾有の大災害と言われた。
日本中が
「頑張ろう」って言っていた。
みんなが何らかの形で募金活動に協力した。
GWにはボランティアツアーなどで、多くの人が援助に出かけた。
日本人の誰もが「何か手助けを」と思った。
世界中から援助があった。

やっと1次的な時期の目処が付き、再興に向けてのステップが見え始めている(と思う)。
その最初の壁が、今もそのままになっている「がれき」だ。
「あれはがれきじゃなく、1つ1つの家族の思い出だ」
と言われたこともあったが、とにかく撤去し、処理しないと街は再興できない。

ところが、この処理が進まない。
「がれき受け入れ反対」と多くの地域が反対しているからだ。
確かに「放射線量」が不明とか、基準値がないとか、いろいろ受け入れる側としては不安もあるし、ひと言言いたいだろう。
でも、今もがれきと一緒に生活してる人が東北には沢山いるんじゃないだろうか?

ものすごく痛烈なものの言い方をしてしまうと
「結局、自分たちは安全場所にいて『頑張ろう』と言っているだけなんだね?」と思ってしまった。
放射線を測って、問題のないレベルなら受け入れるように検討してほしいよ。
それでこそ、世界に褒めてもらった「日本人の良さ」なんじゃないだろうか?

最初に書いたように批判を受けるだろうと思う今回の記事だが、これも「東日本大震災」の記録として残そうと思ったのである。

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2012年1月10日 (火)

東日本大震災後の年末年始

本当なら、年末に予告した新しいシリーズを始めようと思ったが、ちょっとだけイレギュラーで。

Sinsaihoudou昨年から今年にかけての年末年始は、少し違う感覚があった。
何が違うかと言えば、やはり「東日本大震災」に関連するテレビ番組があったことだ。

あの震災が発生した後、このブログでは「報道」について触れたことがある。
最初は「東北太平洋沖大地震の記録その2」。この時は、まだまだ混乱の最中だったから、民放のテレビ局に関して期待したコメントを書いた。
2回目が「報道とバラエティの違い」として、震災後2ヶ月経過した後に、私だけの感想ではなく、雑誌のアンケートを参考に、「民放の東日本大震災の報道のダメさ」について書いた。

そんな経緯があったため、年末の各局の「あの震災」に関するテレビには興味を持っていた。
が、正直言って「全然ダメ」と思えたのである。
特にTBSで流していた「報道の日」は、あの震災報道当時に唯一民放で「震災時の報道の在り方」についてコメントしていただけに期待していた。

しかし、朝から丸一日の中で「巨大災害時の報道について」という観点から分析や報告されたことはほとんどなかった。もちろん年末の忙しい時期に、朝からずっとテレビ(しかもTBSだけ)見てたわけじゃないから、もしかすると見逃したのかもしれないけれど・・・・。

この「自分たちの報道がどうだったのか?」については、他のテレビ局でも全く触れられておらず、「なぜ地元FMが必要だったか?」「なぜラジオの方が有効だったか?」「テレビ報道に問題がなかったか?」など、いろんなテーマがありそうなのに、これっぽちもない気がした。

「奇跡の生還」「あの時の命」
そんな感動のシーンや出来事ばかりで、しかもチープな再現ドラマなどでお金をかけるなら、もっと「報道企業のの責任」としての視線も入れてほしかったなぁと思う。
こんなことを思って見てたのは私だけだったんだろうか?
これもあの震災の記録として、残しておきたい出来事だったので、ブログとして残すことにした。

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2011年9月15日 (木)

それでも原発は必要と言える人たち

私は基本的には、原子力発電に懐疑的だ。
「懐疑的」とい言葉が曖昧なら「反対」と言い切っても構わない。
その理由のほとんどは「『神の領域』のエネルギー」に書いた。

Genpatukosuto_2あの記事は東日本大震災の後、1カ月半後に書いたのだが、最悪の危機は脱したように思えるが(本当のところが分かっていないので)、未だに原発危機は去っていない。
「実際はメルトダウンが起きていた」なんて後から言われて「え~~~~」と驚いたりしたが、その後も「脱原発」「安全な原発」と諸説が出ている。

そんなテレビでのコメントを見るたびに、いつも2つの疑問点が頭をよぎる。
「もっと安全なシステムを構築して原発を稼働する」
この意見を聞くたびに
「人間はミスを犯す生き物だ」
という言葉を思い出す。

大型旅客機などで多くの人命が失われるような大事故が発生するとこのコメントが流れる。
「人間はミスを犯す。だから何重にもセーフティシステムを構築しておく必要がある」
そのおかげで旅客機の事故は、クルマや電車などと比較して、遥かに低い確率でしか事故は発生しない。

でも、事故は発生する。
なぜなら
「人間はミスを犯す生き物」
だからだ。

もう1つ。
「原子力エネルギーでないとコスト高になる」
これって何を基準に言っているんだろう?
確かに単純な「原材料費」や一時的な経費は安価なのかもしれない。

でも、今回のような事故が発生した時には、いったいどれだけの補償額が必要になるのか、未だに分かっていない。
それはコストに加算しなくてよいんだろうか?
今回の東電の補償額って、結局「税金」「電力費」で補てんするんでしょ?
じゃ、やっぱり国民の財布から出るわけで、電力コストと同じことになるんじゃないのか?

例えば原子力じゃない発電所だって事故は起きる。
実際に今年も豪雨の影響で水力発電所が使えなくなったというニュースを見た。
その復旧費だってお金が掛かるけれど、原子力とは桁違いの金額なんじゃないだろうか?

この2つの疑問。
ちゃんと明快に答えてくれる人はいない。
いったい誰が、本当に「原子力発電所」の経済的価値を納得するように説明してくれるのだろう?
「原子力発電所は必要」
この未曾有の原発事故の現状を見ながら、それでもそう主張する人に、ちゃんと説明してほしいなぁ。

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2011年6月27日 (月)

省エネか?身体か?PCか?

先週のこと。
暑かった~~特に週の後半は。
いつものように1泊で東京出張に出かけていた。
私のいつも住んでいる地方は、京都ほどではないけれど、日本有数の暑い街と言われる。
ただし、多治見とか熊谷とか「日本一気温が高い」わけでなく。

Karadasyouene

「暑い」「寒い」ってのは、数値よりも「体感」の方が優先されるものだが、私の住んでいる街の「暑さ体感」はかなり暑い。
それは湿度が非常に高い。
真夏に街を歩くと、細い蜘蛛糸が体中にまとわりつくような感覚で、暑さを感じる。
それに引き替え東京は、数値的には高い温度になっていても、湿度が低いせいか「木陰」に入るとちょっとだけ「ほっ」とする感覚がある。

ところが先週は新幹線から東京駅ホームに降りた瞬間に
「むっ」
とした暑さを感じた。
もちろん泊まったホテルではエアコンはガンガンに点けて寝た。

日本の夏の暑さは、今年に始まったことではないが、今年は例の震災の影響がある。
というか福島原発の影響と言った方が正しい言い方だが・・・・・
だからいつもよりも「省エネ」とか「エアコン設定気温」を真摯に受け止めているのだが、それでもこれでは身体が参ってしまう。

現に、私の会社などは「エアコン設定気温は28℃を守るように」と通達が出るが、とてもじゃないが、暑すぎる。
身体も参ってしまうが、PCだって参る。
というか、PCの方がヤバいのである。
だいたいPCは、暑さ寒さ湿度は大の苦手な繊細な精密機械なのである。

その辺を考慮せずに「設定温度は28℃」と杓子定規に通達を出していると、身体もPCも壊れてしまうんじゃないのかな。
トータル的な視点を忘れずに節電したいものだ。

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2011年6月13日 (月)

報道とバラエティの違い

仕事柄、会社で購読している雑誌で「宣伝会議」がある。
東日本大震災前は、スマートメディアやソーシャルメディア、タイアップのキャペーン広告などの特集記事の繰り返しばかりで、ちょっとつまらなかった。
ところが、震災後は「どう情報が流れたか?」というこの雑誌らしい独自の視点の記事になり、ここのところ面白い。

Houdobaraethi

その最新の6月1日号が、先日会社に届き、その中の記事を見た。
なかでも「震災で明らかになったメディアの特性と信頼度」というタイトルの記事は面白かった。

このアンケートの結果で一番面白かったのが、震災後の「信頼度」の上下についてだ。
震災後「信頼度が上昇した」のは「NHKの情報」が1位。そして「信頼度が低下した」が、政府・自治体に次いで「民放の情報」が2位になっている点だ。

今回の震災発生後、記録として載せていた私のブログ記事の中にも、何度か「テレビ情報の欠点」を書いたが、やっぱり私だけでなく多くの人が「民放」に対して同じような思いをしていたのだと思った。

震災後、2~3ヶ月経過して、NHKは、やはり独自の調査で様々な角度からこの震災を分析し始めた。
「巨大津波 “いのち”をどう守るのか」
「シリーズ 原発危機 第1回事故はなぜ深刻化したのか」

など見たが、非常に面白く興味深く、多くの問題点や課題点が分かる番組だった。
これからも震災検証のスペシャルは続くようで、楽しみである。

それに引き替え「民放」の貧弱なこと。
先の「宣伝会議」の記事では「このアンケート結果について、厳しく自己評価する必要がある」と書いているが、どうもそれは期待できそうにない。
「あっ」という間に、通常番組に戻り、NHKのような「検証番組」もなく、流すニュースも通り一遍。

あの震災の時に「ちゃんとニュースを読める女子アナがいない」と週刊誌に酷評されていたが、まさしくその通りで、「民放」は報道機関ではなく、単なる「情報垂れ流し組織」となっていたことが、わかってしまった。
これも「報道」「バラエティ」をちゃんと区別し、その違いを認識して組織運営してこなかった結果なのではないかと、「宣伝会議」を読みながら思ったのである。

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