« 2021年8月 | トップページ | 2021年10月 »

2021年9月の記事

2021年9月27日 (月)

新潟・長岡の旅01(準備編)

20210927
ものすご~~く久しぶりに泊りがけで史跡巡りをしてきた。
新型コロナ前は、亡くなってしまった友人が治療中で、新型コロナ禍になってからは自粛と用心という理由で、まったく出かけられなくなっていた。
ブログでちょくちょく書いているように、今年になってから「日帰り」で巡るようになったが、「泊りがけ」となると「2018年の渋温泉・上田城」以来3年ぶりのことだ。
なぜこの時期に行くことにしたかという点については、いくつか複合的な理由がある。

まず新型コロナに対するワクチン接種2回が終わり「高い抗体がある」と言われているタイミングであること。
世間ではデルタ株などにより、2回接種の人も感染するし重症化する人もいると報道されている。
ただやはり2回接種することにより「もし感染しても重症化しにくくなる」ということは信じたいし、今まで通りマスクや手洗いは、注意深く行わなくちゃいけないと思っているし、おそらく訪れるホテルや施設もその対応をしている時期だと考えたからだ。

それよりも最大の理由は「長岡」に行きたいことと重なっている。
長岡と言えば「花火大会」が有名だそうだが、私は若い頃に読んだ「司馬遼太郎氏=峠」の舞台として知った場所だ。
この小説の主人公は「河合継之助」
あまり有名ではない人だが、個人的にはとても魅力的な印象を持って「いつかは長岡に行ってみたい」と思っていた。

河合継之助
幕末の長岡藩(新潟県)藩士。父は秋紀,母は貞子。2度にわたり江戸,次いで中国,九州を遊学し,慶応1(1865)年郡奉行,翌年町奉行兼務,同3年家老に上る。同年12月藩主牧野忠訓に従い上洛,王政復古で誕生した新政府に対し徳川への大政再委任を建言した。翌明治1(1868)年1月鳥羽・伏見の戦ののち江戸に退く。藩邸の資財を売却しガトリング砲ほかの新式兵器を購入,3月に長岡に帰る。新政府と会津藩並びに奥羽諸藩との間に中立し,双方の融和を図ろうとして失敗,奥羽越列藩同盟に加わる。5月19日政府軍の攻撃を受け長岡落城,7月24日奪回するが同29日再び落城。戦闘で負傷し,松本良順の手当てを受けたが甲斐なく陣没。(朝日日本歴史人物事典「河井継之助」の解説より)

「そのうち」と思っているうちに「峠」が映画化されると聞いた。
こういう小説が映画化されるのは嬉しいけれど、困るのはその場所に訪れる人たちが急に増えることだ。
だから「会津」にしても「上田城」にしても大河ドラマ放送後2年くらい時間をおいて行ったのだが、この映画、本当なら昨年公開予定だったものがコロナ禍の影響で来年まで公開延期されてしまった。
そして長岡は新潟県。豪雪地帯でもあるので、冬になってしまう前に行きたい。
「それなら、今のうちに」ということで計画を始めた。

新潟県長岡市。
最初に悩んだのは「どう行くか?」ということだ。
私の住む地域からJRで検索すると、一度新幹線で東京に行って、その後また新幹線で新潟に向かうのが一番早く、それでも4時間半くらい掛かる。
「じゃあ、クルマはどうか」と調べると、やはり片道5時間弱。
一人で行くから「のんびり行けば良い」のだが、なかなかしんどそうだ。
それでも経験上、史跡巡りは「クルマ」で巡った方が何かと便利だ。
いろいろ考えて、訪ねる史跡を調べていくうちに「やっぱりクルマが良いか」ということになった。

宿泊するのは駅前の「ビジネスホテル」にして、夕飯は外で食べればリーズナブルにいけるだろうということで、久しぶりにネットでホテル予約を取った。
あとは行くべき史跡をピックアップしたが、本当に今の時代はありがたい。
ほとんどがネットで確認できるため、位置などを調べてどの順番で行くかプリントした。
このプリントがのちに、とても役立つことになるのだが、これは次回以降へ。

| | | コメント (0)

2021年9月20日 (月)

[はくぶつ館講座]晩年の秀吉

今年から始めた歴史関連の講座参加だが、リアル・オンラインともに経験してきて、ずい分慣れてきた。
今月の初め、家から自転車で10分の所にあり博物館の講座があり、またまた参加してきた。
天気が悪かったので、贅沢にクルマで行ったがここの駐車場「1回300円」とリーズナブルなので助かる。
いつものように手続きして着席してしばらくすると、受講時の「注意」としていくつか説明が流れた。
その中で「撮影は、他施設のものもあり、周囲の人にも迷惑になるので、やめるように」というのがあった。20210921

実は以前スマホで説明画面を「バシャバシャ」撮影していたオバさんがいて「え?撮影して良いの?」と思っていたのだが、そのような人たちへの注意喚起なのだろう。
仕事であちこちのセミナーや展示会に出かけた経験から言えば、通常「原則、撮影・録音は禁止」が常識だと思うのだが、そういう常識がない人もやはりどこにでもいるのだろう。
勝手な推測だが、結婚後専業主婦が長い人には、このような「世の中の常識」を知らずにマナー違反をしてしまう人が多い気がする(すいません、勝手な言い分なので、許してください)。

さて今回の講座テーマは「秀吉没前、数年の文書」
冒頭で担当学芸員から「豊臣秀吉文筆集」の説明があった。
この講座を受講するようになって、このような施設の学芸員で展示会の準備や展示品の整理だけでなく、このような研究資料作りなどもあって、本当に「好き」「造詣」が深くないと出来ないなぁと感心している。
この「豊臣秀吉文筆集」は2014年から刊行を開始し、今年第7巻が発刊されたとのこと。
刊行開始の理由として「秀吉出生の地」として秀吉研究の「メッカ」になっていけばという思いがあると説明していた。

秀吉と言う人は「生涯8,000通」の文書があると言われているが、実はその数は毎年増えているのだそうだ。
ただ今まであったものの「写し」もあれば、「真贋」もあるし、本当に「新しく発見」されたものなどがあり、その実数は常に変化しているとのこと。
これもまた学芸員の活動に感心する要因の一つでもある。
講座の中では、秀吉が亡くなる直前「慶長の朝鮮出兵」の頃の文筆を中心に紹介されたが、当時の「追伸」が書かれる位置の説明など、古文書に全く知識のない私としては、なかなか興味深い内容だった。
そして、今回初公開となった「おとら宛」の自筆書状についても取り上げられた。。
この「おとら」は蒲生氏郷の妹で、秀吉の側室。一説では京都の三条にいたために「三条殿」と言われたらしい。
秀吉の「女好き」はドラマや小説に良く出てくるが、生涯10人以上の側室を持ったと言われ、その出自が家来の娘とか姻戚とか、ある意味「人質」的な意味もあったのかもしれない(もしくは、単に女好きかも)。

講座の内容を詳しく紹介は出来ないが、最後の説明の中でなぜ秀吉が多くの文筆を残したのかという説明があった。
知られている通り、秀吉は正確な出自は分からないが一般には貧しい百姓だったと言われる。
そのため信長や家康のように若い頃から自分に仕えてきた家来もおらず、本当に信頼を置ける部下もいなかった。
そんな秀吉が、いろいろあったにせよ「日の本を統一」「豊臣政権」を設立したために、非常に多くの文書を書き、今風の言葉で言えば「考えや命令を見える化」したのだそうだ。
学芸員が作成した資料の最後には、こう書かれている。
「秀吉という個性によって築き上げられた奇跡の政権。秀吉にしかできなかったこと」
こんな視点から秀吉のことを考えたことがなく、そんな新しい発見も講座参加の楽しみでもある。

| | | コメント (0)

2021年9月13日 (月)

人生相談に見る感覚の差

新聞には「人生相談」という欄がある。20210913_20210906103201
この「人生相談」、遥か昔からあってどの新聞にもあるし、若い頃職場で流れていたAMラジオでもそんな番組があった。
ラジオの場合は、相談者と回答者が電話で話すので、結構生々しかった記憶がある。
「今もラジオでやるのかなぁ」と思って調べたら、ラジオはもちろんYouTubeにも数多くチャンネルがあって「いつの時代も相談したい人が多いんだなぁ」と思ってしまった。

「人の不幸は蜜の味」と言われるが、この人生相談がいつの時代もあるのは、見知らぬ他人の悩みは、まさに「蜜の味」なのだろう。
私自身、そこまで思っているわけじゃないが、新聞を見ているうちに、時として目に留まることがある(これは、タイトルが上手いんだろう)。
今回、この話題を取り上げるきっかけになった人生相談のタイトルが「知人段男性からの長年の年賀状~悩む」で40代の女性会社員の相談だった。
その内容そのものは割愛するが、回答者の答えに、ちょっとびっくりした。

そこには「年賀状は年末に、今年送られてきたそれを一枚一枚見ながら書きます。おおかたの人がそうだと思います」と書かれていた。
それを読んで「この人、今の年賀状のこと知っているのかな?」と疑問に思った。
回答された方は70代後半の人なのだが、確かにその年代の人は「一枚一枚見ながら書く」かもしれないが、40代の人はそうだろうか?
私は仕事の関係もあって、結構早くから年賀状の宛名書きはPCでやるようになった。
今ではいろいろなアプリもあるし、最近ではネットで対応もしてくれる。
このネット対応など、郵便局そのものが対応している時代だ。

60歳を過ぎてから、年賀状の枚数は意識的に減らしてきているが、それでもありがたいことに未だに送っていただいている人が何人かいる。
そのほとんどがプリンタ印字の宛名書きになっている。
60代半ばの私でさえ、そうだ。
相談者は40代の女性。
おそらくPCも使っているだろうし、もしかするとスマホからの年賀状印刷かもしれない。

そんな人が「一枚一枚書くよね?」なんて言われて果たして「はい、そうです」と思うだろうか。
私自身、印字の前にはもらったか確認するし、住所が変わっていないかも確認するが、そうでなく以前のデータのまま、何となく印字する人も多いと思う。
それくらい回答者の方と、今の年賀状の作り方は違ってきてしまっていると思う。
相談に対する回答は、決して変とは思わなかったが、その前提の説明があまりに時代と合わない言い方だったため「この人、分かってないなぁ」という思いが強くなってしまった。

今も昔も「人生相談」は続いていると冒頭に書いたが、デジタル化やコロナ禍で急速に変化したさまざまな活動の変化をしっかり認識していないと「ちょっとずれた」答えになってしまった。
変化のスピードが凄まじい勢いで増している今、年齢だけ重ねて相手の状況がイメージできない年寄りにならないように、気を付けようと思った記事だった。

| | | コメント (0)

2021年9月 6日 (月)

妄想 日本人がマナーと江戸の身分制度

ある時、スマホを見ていたら、こんなページを見つけた。20210816
日本は“マナー大国”?謎マナー乱立の理由をマナー講師に聞いた
まずは、この内容を見てほしいのだが、ここに書かれているように日本には不思議なマナーがある。
座る位置の「上座・下座」は当たり前だし、「エレベータやクルマの乗った場合の位置」まではギリギリ分かる気がするが「書類のハンコの傾き」になると、もう笑いを取りにいっているのかと思いたくなるようなマナーがある。
この記事にもあった「ビールの注ぎ方」などは、若い頃年長者に教えられた記憶がある。
ただし、ラベルを上にする理由は、ちょっと違った気がするが。
それに、コロナ禍で一気に市民権を得た「ビデオ会議」などの画面の位置なんて話になると「そんなこと気にするくらいなら、言葉遣いや挨拶をちゃんとする方が先じゃない」と思えるようなマナーもある。
いずれにしろ海外から見れば「不思議なマナーの国ジパング」ということだろう。

話しは変わるが、最近若い頃に読んだ「司馬遼太郎氏の本」を読み返していることは、以前書いた。
それは相変わらず続いているが、その中で「江戸時代は実に細かく身分を分けていた」という説明があった。
江戸時代に制度に詳しい人には余分な話だが、ここにいくつか例えば「大名」と一括りに言うが、譜代と外様がある。
譜代は「関ケ原前から徳川方だった大名」で外様は「関ケ原の時に、敵方だった大名」と分けられているし、同じ「譜代」でも「御三家」「御三卿」は別格だ。
さらに、「お目見得」という「将軍に会える」クラスと「お目見得以下」という「会えない」クラスに分けられている。
もちろんそれぞれのグループにも「役職」があって、これまで細かく上下関係が設定されている。
そして「僧」「医師」は、この身分制度の外にいるために剃髪して「人間ではない」という位置づけにしたりしている。
このような細かく分類することによって、相互監視ができる制度を家康が作り上げたと思うのだが、ここから私の妄想。

日本と言う国は、同一民族だ。
詳しく見れば沖縄の「島人」とか北海道の「アイヌ」、それに「弥生人」「縄文人」など全くの「1つの民族」とは言えないが、世界の雑多な民族から見れば比較的同じ民族と言える。
だからこそ、江戸時代のように、細分化構造を作ったのかもしれない。
その名残りが、お客様とか上下関係とかに対する過剰(もしくは異常)なまでのマナー主義を生んでいるのではないだろうか。
そして「マナーが出来ている」ことで人間の能力を図ろうとしている人がまだまだいて、わが社の経営陣にも「話し方」「振る舞い」で能力を評価していることを見聞きする。
「話し方」「振る舞い」も大事だけれど、それがすべてではないことは、長く社会人をやっていると分かると思うのだが、その価値観に縛られて生きてきた人には、分からないようだ。
今回は、あるネットの記事からの妄想だったが、江戸時代の身分制度や上下関係については、こんな記事もあるので、読んでみてほしい。

武士と日本のマナー
江戸幕府から始まった上下関係を明確にする文化

| | | コメント (0)

« 2021年8月 | トップページ | 2021年10月 »