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2021年7月 5日 (月)

[はくぶつ館講座]高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)と安永大洪水

今年の3月に「はくぶつ館講座『天下人と清須』」のことを書いた。20210705
今日は、同じ「はくぶつ館講座」「高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)と安永大洪水」というテーマの講座の話。
そもそもこの「高力猿猴庵って誰?」と思ったのだが、私の住む尾張藩が江戸時代に被災した災害記録の話という案内だったので申し込んで出席してきた。

まず問題の「高力猿猴庵」のことだが、学芸員の話からすると開催している博物館が注目して研究し資料集シリーズを刊行中とのことだ。
高力猿猴庵
高力猿猴庵(1756~1831)とは尾張藩中級藩士。
天明5年(1785)に家督を継承して300石・馬廻役、寛政4年(1792)には大番役。文化4年(1807)志願して馬廻役に戻る
学芸員によると「番方と役方」は江戸時代の職制区分で、番方は軍事的な役割、役方は文官的な役割だったそうだ。馬廻役・大番役ともに番方であり、江戸時代は戦もないため、暇な役職だったとのこと。
こういう暇な役職だったために、あちらこちらに出かけ絵入りの記録本を残しているのだそうだ。
尾張藩の藩政史料は明治の初期に、今の愛知県として固まるまで各省をたらい回されるうちに失われてしまい、藩士などが個人的に残した記録は貴重な情報源で、その中でも猿猴庵は記録の質が非常に高いとのことだ。

今回の記録は「安永大洪水」という安永8年(1779)8月25日に豪雨(おそらく台風)のため発生した洪水のことで、庄内川流域を中心に尾張藩領の広範な地域で浸水被害をもたらした大災害。
尾張藩の記録にも高力猿猴庵の記録でも「一面が海のようになっていた」というから、近年テレビに映るような大規模な洪水災害だったようだ。

講座の中で面白かったのは、尾張藩の公式記録と高力猿猴庵の私的記録の違い。
当時の尾張藩主である「徳川宗睦(尾張藩9代藩主)」の命により御小納戸役所は直ちに現場へ向かわされたが、混乱の最中でもあり体裁を整えながら住民の救出・避難に対応し、その心労で担当役職者は寝込んだと報告されているが、高力猿猴庵の記録では、被災住民は「藩は何もしてくれない」と訴えていたとなっている。
東日本大震災以来、今のコロナ禍でもそうだが、自治体の人たちはかなり一生懸命やってくれていて、このような苦情はあまりないと思うが、いつの時代にも「お役所仕事」という感じのものはあったようだ。

この猿猴庵と言う人、文字の記録も貴重だが、それよりもほとんどの記録が「絵入り」で残されていて、この絵がまた緻密で、大きな鳥瞰図的な描き方から、クローズアップされた描き方など非常に分かりやすく描かれており、博物館が注目しているのもうなずける。
この「安永大洪水」は、1回だけでなく、この時期頻繁に大きな洪水が発生していたらしく、原因は陶器づくり(瀬戸焼は地元の名産品)の燃料として、無計画に樹木を伐採して「はげ山だらけ」になっていたとのこと。
その後、長い時間を掛けて植林をしたり治水工事を繰り返していくことで、今のような川筋や地形が確立していったのだそうだ。

しかし、講座を聞きながら「いったいこの人は、どれだけ暇な人だったんだろう?」と苦笑したくなる気持ちだったが、今になれば、こういう「記録魔」みたいな人のおかげで250年以上前の災害の状態を知ることが出来るのだから、歴史的価値ってのは分からないものだ。
このような地方の記録はなかなか知る機会がなかっただけに、面白い講座だった。

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