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2021年5月の記事

2021年5月31日 (月)

尾張四観音巡り(その1)

尾張四観音(おわりしかんのん)というものがあると知ったのは、つい最近のことだ。20210510
コロナ禍の外出自粛状態も1年以上となり、さすがに世の中「自粛疲れ」となっている。
このブログでもクルマの買い替えをきっかけに、1月から「近場の史跡」に出かけ始めたことを書いているが、今回もその話題。
以前から「荒子観音」とか「甚目寺観音」のことは知っていた。
特に「甚目寺観音」は、30代後半に毎年スタジオに1週間くらい籠って撮影の仕事をしていたのだが、そのスタジオの近くにあると聞いていたので「いつかは行ってみたい」と思っていた。

そこでこの2つの史跡の場所を調べようとググっていたら、この「尾張四観音」の文字を見つけた。

尾張四観音(おわりしかんのん)
尾張国の代表的な四つの観音寺
「荒子観音」「甚目寺観音」「龍泉寺観音」「笠寺観音」を指す言葉。いずれの寺も開基から千数百年以上を経た古刹。徳川家康が名古屋城の築城に際し、城から見て鬼門の方角にある上記4寺を鎮護として定めたとされる。それぞれの観音を結ぶ道として四観音道があったが、このうち笠寺と竜泉寺を結ぶ道の一部が現存し、地名にもなっている。(Wikipediaより)

ちなみに、私の街で一番有名な観音寺の「大須観音」は、江戸時代初期に家康の命により美濃から現在地に移転した比較的新しい寺であり、四観音には列しないのだそうだ。

笠寺観音
一般には笠寺観音(かさでらかんのん)の通称で知られる笠覆寺(りゅうふくじ)は、十一面観音を本尊とする真言宗智山派の寺院。寺伝によれば、天平5年(733年、一部文書には天平8年 - 736年)、僧・善光(または禅光)が呼続の浜辺に打ち上げられた、夜な夜な不思議な光を放つ霊木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。(Wikipediaより)

ここは昨年の正月に娘一家と初詣に出かけた。
私が住んでいる場所からクルマで10分くらいととても近く、結構有名でもあり、ちょくちょく近くを通っていたのだが、訪れたことはなかった。
正月だったこともあり屋台店も出ていたが、思っていたより大きくない境内だった。
ただその時は3世たちも一緒だったので、じっくり見て回る時間もなく、もう一度行ってみたいと思っている。

荒子観音
正式には「浄海山圓龍(円竜)院観音寺」。本尊は聖観音(しょうかんのん、33年に1度開扉の秘仏)。円空仏の研究は荒子観音寺に始まり、荒子観音寺に終わると言われるほど、荒子観音寺には多種多様な円空仏が存在する。(Wikipediaより)

まったく不勉強の状態で訪れたが、円空仏ゆかりの観音寺とは知らなかった。
昔々博物館で開催された「円空展」で、もう嫌というほど「円空仏」を見たが、ここには「円空作の仁王像」が仁王門に安置されていた。ただやはり「円空」なので、普通の仁王像と違って面白かったが、かなり古く虫食いも進んでいるようで、ちゃんと保存されれば良いのにと思った。
重要文化財であり市内最古の木造建築物である「多宝塔」は工事中でネットに覆われみることができなかったが、ここは毎月第1日曜には「荒子円空市」があるそうで、一度行ってみようと思う。
また有名な「前田利家」生誕の地が近く、少し歩いたところに「荒子城跡」とともに史跡案内があった。
今は神社となっているけれど、おそらく当時は「砦」のようなものだったのだろう。

その2に続く。

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2021年5月24日 (月)

背守り~親の気持ちが形になっていた時代

もう5月の半ばも過ぎているというのに、2月の新聞の話題で恐縮だが、備忘録としてでも残しておきたい「言葉」だったので、我慢してください。20210426
それは読売新聞の「よみほっと 日曜版」に載っていた「ニッポン絵ものがたり」に紹介されていた「春日本・春日権現験記(江戸時代・19世紀 春日大社蔵)」のこと。
「春日権現験記」とは、春日大社の祭神、春日明神の由来と霊験に関わる説話を集めた鎌倉時代の絵巻だと解説されていた。
貴族から庶民までの人々が描かれ、当時の風俗を知る貴重な資料なのだそうだが、その中の「巻第十六・第四段」の絵画を取り上げていた。
以下、新聞の説明

魔道に落ちた僧が女人に憑いて春日明神の御利益を語る。
門の外では黒い犬が寝転び、鶏がえさをつつく。
そこに手を引かれた一人の子どもが通りかかる。
その子の着物の背には、後ろ襟の下に何か付いている。
これは絵画に登場する「背守り」の最も古い例として知られるものだ。

「背守り」
このワードを見て「確か、どこかで読んだ覚えがある」と思い検索しているうちに、以前ブログで載せた「着物始末暦~中島要」だったと分かった。
「着物始末暦」はめでたく完結しているのだが、そのシリーズの中の第二巻「藍の糸」に納められている「恋接ぎ」に出てくる。
話は主人公の一膳飯屋の前に赤ん坊が捨てられるところから始まるのだが、その子の産着に「背守り」がついていることを、もう一人の主人公である余一が気づき、こう話す。

人の顔には目があるから前を見ることができるが、あいにく背中には目がついてねぇ。
代わりに背縫いの目が見守ってくれるのさ。
しかし、小さな子どもの着るものには肝心の背縫いがない。
そこで必要のない縫い目を「背守り」として入れるのだ

このように「背守り」の説明が載っていて、読んだ当時「なんてステキな習慣だったのだろう」と思った。
当時「縫い目」は魔よけの力を持つと信じられていて、わが子の無事を祈る強い親心が「背守り」にこめられていたと言われる。
江戸時代に詳しい人には知っている話だが、「七歳までは神の子」と言われていた。
医学や衛生、栄養などの条件が悪く、成人まで育つ子は少なく、亡くなってしまうことは頻繁にあった。
そのため早逝した場合は、「七歳までは神の子」と言ってあきらめるように諭していたと言われる。

とは言え、親や縁者からすれば、その悲しみは大きなものだったと思う。
だからこそ「背守り」を付け、わが子が無事に育つように祈ったのだろう。
ネットで検索すると、この良き習慣を守ろうとする団体や本なども出ていることがわかるが、こうして目に見える形で「親の子を思う気持ち」は、現代ではなかなかない。
スマホの現在位置やGPS機能などで、位置確認は出来るけれど、心配する親の気持ちを子ども自身が見ることはない。
そんな見えなくなってしまった親の気持ちが形になっている「背守り」というものや言葉や習慣は、これからも残しておきたいものだと思い、今回ブログに認めた。

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2021年5月17日 (月)

叔父の逝去で母の昔を

昨年の今頃、以前の上司が急逝したことはブログにも書いた。
また11月には同年齢の友人、そして12月末には叔母と逝去の知らせが続いて入っている。
長く生きていると人の生死には、一つのリズムがある気がする。20210524
12月に亡くなった叔母は、お袋の妹で93歳という高齢での逝去だった。
お袋は「52歳」という若さで亡くなってしまったが、その兄妹である叔父叔母は長命を保っていた。

2019年12月に「親孝行の真似事」に叔父・叔母と墓参りに行った記事を書いた。
その叔父・叔母には12月に亡くなった叔母の葬儀で会ったが、特に叔父は寂しそうだった。
年が明け2月くらいにその叔父の娘である従姉妹から連絡があって、かなり弱ってしまっており少し手伝って欲しいとのことだった。
従姉妹もバツイチで一人暮らし。さらに母親である叔母も調子が悪く、近くに住んでいて会社も比較的休みやすく自由に動けるのは私くらいなので「手伝えることは手伝うよ」と言っておいたが、その後もいろいろのヘルプすることがあった。
初めて手伝った日には、叔父の身体を支えたり持ち上げたりして、翌日筋肉痛になってしまったが「親の介護をしている人は大変だなぁ」と実感した。

最後に会ったのは病院への行き帰りをヘルプした時だったが、その時に一緒に見たレントゲンでは肺が真っ白で「もう看取りの時期」と言われた。
「夏まで持つだろうか?」と思っていたが、3月の末に亡くなった。
通夜に葬式にやはり人手がいるだろうと手伝いに行ったが、その時に残された叔母とイロイロ話すことができた。

従姉妹の話では叔母は認知が進んでいるとのことだったが、昔の話はしっかり覚えていて私が生まれる前のことを聞かせてもらった。
私が生まれる前、当時私の父母は今私が住んでいる街で暮らしていたというし、兄はそこで生まれたことも聞いたことがある。
多分、その時代の頃の事だろう。
叔父は高校卒業後、私の父母が住んでいることを頼って故郷を出てきたのだろう。
そして、いろいろ職業を転々として、最後には建設系企業に入社し、トップ(おそらく役員だと思う)まで行ったのだが、その頃の話を叔母がしてくれた。

そこで腑に落ちたことが1つあった。
お袋が亡くなった時、叔父が号泣した。
従姉妹など「お父さんが泣く姿を初めて見た」と驚いていたが、おそらく叔父は若い頃にずいぶんお袋に心配を掛けていたことを知っていたのだろう。
そして、小さい頃何度か叔父の家に連れて行かれたが、お袋としては「心配な弟」だったのだろう。

振り返ると自分自身だって60数年いろんなことがあったが、叔父叔母はもっと長い。
さらに戦争という時代を経験しているために、私たちなんかよりも、もっともっといろんなことがあったのだろう。
早くに両親とも亡くなってしまった私は、両親の若い頃の話をあまり聞いたことがない。
そういう意味では、ちょっと変な言い方だけれど、叔父が亡くなったことで、私の生まれる前のお袋の話が少し聞けて、ちょっと嬉しかった。

お袋側の兄妹で、一番下である叔母もずいぶん耳が遠くなってしまったが、まだまだ元気だ。
ただコンビニまでクルマで一緒に行ったときに「ひとりぽっちになっちゃった」と言っていたのが、ちょっと気にかかる。
順番だから仕方ないけれど、私の名付け親でもあるし、私たち従兄妹の元締めで今でも私たちはその叔母の事を「〇〇ちゃん」と呼ぶくらい近い存在だ。

余談だが、叔父の葬儀は神式で行われた。神職の話では亡くなっても葬儀までは耳を聞こえているから「皆さんと思い出話をしてください」とのこと。そして五十日(仏式でいう四十九日)を過ぎると神様になって、その家を見守るということだ。
そんな話を聞くと、やはり神道は日本古来のもので個人的にはすごく沁みる考え方だと思った。さらに神道って「宗教」というより「日本人の自然観」「その儀式」なんだなぁと感じる葬儀だった。

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2021年5月10日 (月)

関ケ原古戦場記念館へ行ってきた

私が住んでいる街から関ケ原までは約60km。
高速道路で行けば、1時間掛からない距離にある。20210510_20210426132601
昔から京都へ行くときには必ず通っていたし、西日本に出かけた後など「関ケ原IC」が近づくと「もうすぐ到着だな」と思う感じで、割と地元に近い感覚があった。
そして歴史的にも「関ケ原の戦い」の場所ということも、もちろん知っていた。
しかし、特に何か有名な史跡があるわけでもなく、あのあたりは寒気が伊吹山にあたり雪が多かったり雨が降ったりと、あまり良いイメージを持っていなかった。
そんな感じで歴史好きだけれど、通過したことしかなかった街に昨年10月に「関ケ原古戦場記念館」ができた。

完成当時には、地元のテレビで紹介されていたが、戦場を体感できるシアターは予約制とのこと。
すでにその時にはコロナ禍でもあり、さらに先に挙げたように冬には雪の心配もある地域なので、暖かくなるまで待っていた。
GW前の平日にちょうど用事があり有休を取った日に予約をして行ってきた。

用事が思ったより早く済んでしまったので、14時の予約なのに11時半に到着してしまった。
取敢えずと思って入場するとやはり完全予約で、案内のスタッフは「皆さん、時間まで史跡巡りされます」とのこと。
天気も良いし、会場に用意されていた「史跡めぐりマップ」を片手に「近場だけの史跡を」と巡りはじめた。
まず、この「関ケ原古戦場記念館」の場所は、家康が最初の陣である「桃配山」から決戦地に近くづく「最終陣跡」に建設されていたことを知り、そこから「石田三成陣跡」の笹尾山まで行くことにした。

道にある看板を見たら700mとあったので、歩けば良いかと出発。
歩いてみると次の史跡まで数百mと出るので、ついつい次々歩いてしまった。歩いたのはこんなコース。
関ケ原古戦場記念館」→「関ケ原決戦地」→「島左近陣跡」→「石田三成陣跡 笹尾山」→「島津義弘陣跡」→「小西行長陣跡」→「徳川家康最終陣跡」「床几場(家康が論功行賞を決めるために首実検をした場所」→「東首塚」。
これだけの史跡を2時間半くらいで歩いたが、それぞれに説明文も書かれていたし、それなりに史跡が整備されていて飽きることなる楽しめた。
ただし後半は、日頃の運動不足の影響で、足が痛くなってしまったが。

歩きながら今から420年前にここで10万人の兵が集まり戦い、そして亡くなったのかと思うと、ちょっと想像できない感じだったが、そんな妄想しながらの史跡巡りは格別だ。
特に「石田三成陣跡」である笹尾山は、ちょっと息が切れるが登ってみれば関ケ原を一望でき、すべての戦場が見渡せる絶好の位置だ。
ここに陣を構え、徳川軍を広く迎える「鶴翼の陣」は間違っていないし、小早川秀秋が裏切らなかったら、やはりかなりの接戦だったのではないかと思える。
これは本当に笹尾山に登らないと実感できないなぁと何度も関ケ原を見渡した。

ただやはり司馬遼太郎の「関ケ原」に書いてあるように石田三成には、余程人望がなかったのか、そしてまだまだこの時期は、江戸時代ほど世話になった主君(この場合、秀吉)に対する忠義心が強くなかったのか、徳川軍の「戦いの前の調略」に負けてしまったとしか思えない。

歩き疲れて戻って、いよいよ入場したが、展示物は複製が多く、やはりメインは「体験型シアター」
自分自身が決戦の場に居るように、風が吹いたり振動がしたりして、これはこれで面白かったが、実際に歩いてその距離感が分かった状態で体験したので、かなり強く実感ができた感じだ。
歩きながら「クルマで回っている人」「レンタサイクルで回っている人」などに出会ったが、昨今の歴史ブームで昔からあるこのような史跡が整備されて、巡りやすくなっているのは本当にありがたい。
「きついなぁ」と言いながらも歩いて行けるうちに、これからも出かけてみようとおもっている。

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